OLエッチ体験談その1


 何か今日は妙に客の視線が気になる。人に見られる仕事をしているんだから視線なんて浴びる程受けてるけど、今日のは少し違う。
私のすぐ横で営業スマイルをふりまいている牧村詩織もそれは感じているらしく、時々私の方を見て苦笑いに似た表情を見せている。…そう、確かに客の反応が昨日までと少し違う。
…なぜなんだろう…?
 気にはなったものの、私の体は訓練を受けた通りに音楽とナレーションに合わせてステージ上のオートバイの間を泳ぐようにして動き、要所要所でポーズを付ける。
 そして、仕事に追われているうちにいつしかそんな事も忘れてしまっていた。
 ここは幕張メッセのコンベンションホールの一角、平たく言えば第31回東京モーターショーの二輪車館の片隅だ。ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキといった国産メーカーに加えて、アメリカ、イタリアなど外国も含めた蒼々たる二輪メーカーが、与えられたブース狭しと出展している。
 私がコンパニオンを勤めている朝倉発動機は、業界内では規模、業績、歴史ともに最下位だ。それでも何とかつぶれずに続いているのは、エンジンのOEM供給を行なっているからだと言われている。
 創業者は旧日本海軍の航空機エンジニアで、操業当時の朝倉発動機は、敗戦後に雨後の竹の子のように現われた弱小バイクメーカーの一つに過ぎなかった。
 カワサキやヤマハのように、資本力のある企業の一部門としてスタートした二輪メーカーと違って、アサクラのように町工場同然のスタートを切ったメーカーのほとんどは、戦後の復興と高度経済成長の荒波にいつしか姿を消していったという。
 今やタイヤと自転車のメーカーとして国内最大手のブリヂストンでさえ、一時はバイクの生産に進出しながら、結局撤退している程の弱肉強食の世界だったようだ。
 その激烈な自然淘汰を生き残ったのは事実上ホンダとスズキとアサクラだけだったが、アサクラがホンダ、スズキと決定的に違うのは、四輪の生産をしていない事だ。
 これには1962年の産業特別振興法がからんでくる。これは既存メーカーだけを残し新規参入を禁止する法案で、これが可決されると、自動車業界に限れば四輪生産経験のないメーカーは新規に四輪の生産はできなくなるというものだ。
 元々自動車修理工場出身の本田宗一郎が社長をしていたホンダは、その年の10月のモーターショーにS360とAK360の2車種を出展したが、アサクラは四輪の生産技術も生産設備も立ち後れていて間に合わなかった。
 結局、翌年にその法案は廃案になったが、四輪生産に失敗したアサクラは倒産寸前にまで追い込まれて、再び力を取り戻した時には四輪においては追い付けないほどの差をつけられていたという。
 今アサクラが携わっている業務は、二輪の生産販売、660cc、1300cc、1600ccの自動車エンジンの生産供給だ。提携している自動車メーカーにアサクラのエンジンを供給するかわりに、そのメーカーの販売店でアサクラのオートバイも販売するという、おおよそ二輪メーカーらしからぬ販売戦略をとっている。
 アサクラのエンジン供給先はキサラギ自動車という四輪メーカーで、元々は軍用車両の修理や改造を専門にしていた工場だったのが、戦後その技術を元に四輪メーカーとして再スタートを切ったと聞いている。
 研修でこぼれ話として聞いた話では、キサラギという企業名の由来は創業者の名前でも何でもなく前身となる修理工場の共同経営者が揃って2月生まれだった事から、2月の別名である「如月」になっただけの事だという。

 アサクラの販売網は2系統あって、ひとつは二輪のみを販売する既存の二輪ショップや直営のA.T.S(アサクラテクニカルショップ)で、もうひとつは提携している自動車メーカーの販売店だ。聞くところによると、自動車販売店での売り上げがスクーターを中心になかなか好調らしい。
 クロスカントリー4WDの横にオフロードバイク、スポーツカーの傍らにレーサー擬きのスポーツバイク、ファミリーセダンと並んだスクーター…といった展示は、四輪だけの展示よりはずっと華やかになるし、心理的にもオートバイがぐっと身近に感じられる効果がある。
 総じてオートバイの価格は自動車のそれと比べると安く映るし、ついつい車の購入のついでにオートバイまで買ってしまうお客様もいるという。
 もっともこれには、250万の車を買ったつもりになれば200万の車と50万のオートバイが買えるとか、ローンを一緒に組めば割安だとか、言葉巧みに購入意欲をくすぐる営業マンの働きを無視するわけにはいかない。
 これはキサラギ自動車にとっても同様で、80万の750ccの横に同じ価格でエアコン標準装備の軽自動車があれば安く感じてしまうといった心理を巧みについて、財布の紐がかたい主婦層の切り崩しにも一役買っている。
 ビッグバイクの排気音を思わせる重低音を効かせた音楽が止み、ナレーターの原田理恵子が一礼してステージ脇の通用口からスタッフルームに消える。
 私と詩織は無機的ステージの彩りとして、あと10分程はオートバイの傍らでポーズを付けながらカメラの砲列に晒されなければならない。別段悪い気分ではないが、スカートの中が見えそうで立ち居振る舞いに気を使う。
 交代の合図の短い音楽が鳴り、ステージの下に交替のコンパニオンが姿を現した。水野翔子と坂井美雪だ。私と詩織は曲のフェードアウトに合わせて深々と一礼すると彼女たちと交替した。
 時間は6時をまわっている。あとは閉館時間になったらお客さまを見送るだけだ。残る日程はあと4日間…見てくれの華やかさと裏腹に結構きつい仕事だ。ハイサポートのパンストを穿いているのと、慣れない立ち仕事をしているせいで、特に夕方になると脚がむくんでしまって辛い。モーターショー開催当初の頃は、早く元の職場に戻りたくてしかたなかった。
 他のメーカーは専属のコンパニオンがいたり、モーターショー用に募集したり、コンパニオンやナレーターの派遣会社に依頼したりしているらしいが、アサクラでは全員自前…つまり、普段ごく普通に働いているOLの集まりだ。
 本社や営業所、生産工場からの公募や推薦で集められ、そこからさらに選抜された18名が最終的にコンパニオンとして採用される。そして、モーターショー開催期間や研修期間を含めて3ケ月間は本社広報課に所属となる。
 元々自社製品の知識があるから研修の期間や費用が安くあがるし、開催中も特別手当てを支給するだけだから、素人くさい、粒揃いじゃないという事を除けば極めて合理的なやり方だ。
 どこかの自動車雑誌が、三菱やトヨタのコンパニオン1人分の報酬でアサクラのコンパニオンが4人雇えると書いていたが、あながち大げさではないかもしれない。
 アサクラのコンパニオン選考基準は、20歳から24歳という年令制限意外は特に知らされていない。私は今年が初めてだが、東京モーターショーは2年に1回だから23歳の私にはこれが最初で最後だ。
…最初で最後か…そう思うと貴重なあと4日ね…
「片桐静香さん…疲れてるとこ悪いけど、ホテルに戻ったら私の部屋に来てもらえるかしら? ちょっと聞きたい事があるんだけど」
 ステージの裏側の控え室でくつろいでいると、本社の販売促進部から派遣されたスタッフのひとりの柳瀬真琴が私に耳打ちした。彼女はいわば私たちコンパニオンのまとめ役で、ここに来ているアサクラの女性社員では唯一の既婚者だ。
「ここじゃまずいんですか?」
「…ちょっとね…」
 何だろう? 内密にしなければならないようなミスもした覚えがないし……ただ何となくいい予感はしない。私は針のムシロに座ったような気持ちで閉館までの時間を過ごした。
 もっとも、閉館時間を過ぎてもすぐには帰れるわけではない。本社からここに派遣されているスタッフと今日の反省を含めてのミーティングがあるし、男性社員などは遅くまであれこれチェックしたり、展示車を磨いたりといった雑用まである。
 表向きの派手さとは裏腹に裏方の苦労は大変なものだが、それでも開催前から比べればずっと楽だと本社の企画部長さんが言っていた。
 その年のモーターショーのテーマに即したコンセプトバイクやエンジンの開発。市販車、参考出品車の展示方法の検討。コンパニオンの選考や、衣装のデザイン外注に製作依頼。配布するパンフレットの作成や、ブースのステージの組立てや装飾に至るまで、諸々の膨大な量の仕事が存在する。
 そして、それをこなす為に本社、研究所、営業所、生産工場はもとより、イベント企画会社、広告会社、デザイナー等々、気の遠くなるような工程と人員を投入して、そのすべてのスケジュールを予定通りに進行するのだ。
 モーターショーに比べれば、浅草の三社祭の運営だって学校の運動会と同じだと企画部長が豪語していた。私は笑って聞き流したが、もしも浅草っ子がこれを聞いたら怒るに違いない。
 残ったスタッフにあいさつすると、私たちはひっそりとした会場を後にして、用意されたバスで一足早くホテルに帰った。
 派手なコスチュームを脱げばどこにでもいる普通のOLだ。ロビーですれ違う人達も、私たちがモーターショーコンパニオンだとは夢にも思わないだろう。
「ああーっ、生き返った」
 美雪がベッドに体を投げ出して気持ちよさそうに言った。私たちコンパニオンに与えられている部屋はツインルームで、私のルームメイトは坂井美雪だ。彼女は相模原工場の厚生課から派遣されていた。
「ねえ静香、今夜は何食べようか」
 顔だけこっちに向けて美雪が聞く。最初のうちは苗字で呼びあっていた仲間たちも研修が終わる頃にはほとんどが名前で呼びあうようになっていた。
「食べる前に柳瀬さんの所に行かなきゃ。ちょっと呼ばれてるから」
「何かしたの?」
 美雪が起き上がって私に聞いた。
「別に覚えはないんだけどね…」
「昨日は翔子が呼ばれてたみたいよ」
 美雪が低い声で意味ありげに言った。ますます悪い予感がする。
「で、何だったの」
「うん…ちょっとした事だったって言ってたけど…それ以上は何も話してくれなかっ
たわ。少なくとも良い話じゃなさそうね」
「そう…じゃ、行ってみるしかないわね」
「うん、待ってるから。帰ってきたら食べにいこ」
「食べる元気があったらね」
 同じフロアにある柳瀬真琴の部屋の前に立ち、恐る恐るノックする。
「どうぞ」
 いつもと変わらない声に少しホッとする。中はシングルルームだった。小さなテーブルの向こうに柳瀬真琴が座り、手前側に私の席が用意してある。テーブルの上には写真週刊誌が無造作に置いてあった。
「疲れてるとこ悪いわね。掛けて」
「…はい」
「最初に言っておくけど、片桐さんを疑ってるわけじゃないって事だけ頭に入れておいてね。ただちょっと確認したいだけだから」
「あ…はい…」
 何となく犯罪の匂いがする話らしい。誰かお金でも盗まれたのかしら。
「最初にこれを見てくれる?」
 テーブルの上にあった写真週刊誌を広げて私の方に向ける。週刊誌のネタになるような事でもあったのかしら…? と不安が半分、興味が半分でページを覗き込む。
 大きい見出しで「深夜のハプニング」とあり、小見出しで「モーターショーコンパニオン路上で失禁?」と書かれていた。ほぼ1ページを写真が占めていて、残るスペースに事の次第を書き記したらしい短い文章が載っていた。私は信じられない物を見るように記事に食い入った。
 人のまばらな幹線道路の街路樹の下で、少し内股気味に脚を開いた女性の後ろ姿。
その人が着ているのは、紛れもなくアサクラのコンパニオンのコスチュームだ。
「…こんな事って…」
 私は思わずつぶやいた。

 アサクラは今回のモーターショーに、ステージコンパニオン用2種類とナレーター用1種類、そしてパンフレット配布等を受け持つフロアレディ用1種類の、計4種類のコスチュームを用意している。
 ステージ用コスチュームはスカートバージョンとショートパンツバージョンに分かれていて、スカートバージョンは、チャコールグレーのタンクトップにオフブラックのセミタイトミニを穿き、その上にピュアイエローのショートブルゾンを羽織っている。そして、脚元もオフブラックのショートブーツといった組み合わせだ。
 ブルゾンは裏地もオフブラックで、前回のモーターショーのコスチュームとは打って変わって地味な感じだが、私としては今回の方が気に入っている。
 ショートブルゾンの背中にはASAKURAのロゴがイメージカラーのブルーで描かれ、両肩と左胸にはアサクラのシンボルマークが縫い付けられている。
 ショートパンツバージョンは、タンクトップ、ブルゾンとも色使いやデザインは基本的に同じだが、ショートパンツバージョンの方はブルゾンの袖を捲くった作りになっていて、脚元もブラックレザーのロングブーツだ。
 ナレーター用はのグレーのノースリーブのミニワンピースにイエローのショートジャケット、グレーのパンプスの組み合わせで、同じような色使いながら、ステージコンパニオンより落ちついたイメージだ。
 そして受け付け用は、温かみのある黄色のダブルのテーラードジャケットに、大きめのリーツの薄いグレーのミニスカートの組み合わせ。
 ジャケットの襟はチャコールグレーグレーの縁取りがあり、グレーのスカートの裾はその逆に黄色い縁取りがある。脚元はシックなグレーのパンプスなので、プリーツスカートの割には子どもっぽくない。
 それぞれのコスチュームに袖を通した日、『私たちアサクラのコスチュームもなかなか良いんじゃない』…が皆の意見だった。
 でも、ショーが開幕して他のメーカーのコンパニオンのコスチュームと比較すると何だか見栄えがしないシロモノのように見えてきた。私はショーの期間中何度も羨ましげに隣のカワサキブースを眺めたものだ。
 その見栄えのしないコスチュームがペラペラの写真週刊誌に載っている。モノクロ写真だから鮮明とは言えないが、写っているのはそのうちのステージ用のスカートバージョン…つまり私が着ているコスチュームと同じ物だ。だが、着ているのはもちろん私ではない。
 街路灯に照らし出されたそれは、ショー会場でカクテルライトに照らされた華やかさが嘘のような、一種独特の淫靡な雰囲気を感じさせた。
 少し開いた脚の間を、細い水流が街路灯を反射しながら糸を引くように滴り落ちている。たしかにこれはオシッコを洩らしているように見える。足元を拡大した写真ではパンストのふくらはぎが濡れている様子や歩道に広がる水たまりまで写っている。
「…こんな事って……」
 私はうわ言のように何度もつぶやいた。今日感じた妙な視線や客の反応の原因がこんな事だとは想像もしなかった。
 今日、詩織が私の方を時々意味ありげに見ていたのもうなずける。翔子と同室の詩織は、私より1日早くこの話を翔子から聞いたに違いない。
「見ての通りよ。こんな事は前代未聞だわ。生理現象だからお洩らしはしかたなかったと言い訳もたつけど、でもコスチュームを着たまま外出するなんて……昨日、広報課長にこれを見せられた時は気が遠くなったわ。一昨日発売の雑誌だから今日の入場者で知ってる人は多いでしょうね」
 アサクラのコンパニオンは全員で18名で、その内でステージに上がるのが9名。その中でスカートを穿いているのは、私と翔子と津島美咲の3名…。私はしていないし、翔子がシロ…となると、残るは美咲…だけど、美咲にしては身長が高すぎる。翔子だとしても髪が短いし、何となく体系が違う気がする。
「でもね、ちょっと変なのよ。あなたにしても、水野さんや津島さんにしてもこの写真とは体系や髪型が違うのよ。衣装はあなたたちの衣装なんだけどね」
 何か納得できない様子で、柳瀬真琴は写真を指で弾く。
「ええ…私もそう思います…と言うより、私も含めて、この写真に該当する人はいないと思いますが…」
「私もそう願いたいわ。わざわざこんな物着て外出する必然性もないしね。ただ、そうなるとこれが誰なのか謎なのよね…」
 私たちのコスチュームは一人一人に合わせて作られていて、万一汚れたり破損した時の事を考えて2セット支給されている。ブルゾンの下に着るタンクトップや、光沢素材のハイサポートパンストは各5セットだ。
 それらは厳重に管理されていて、たとえ私たちといえども、勝手に持ち出して着る事はできないようになっている。しかし、コスチュームを紛失したといった話も、ましてや盗まれたという話も聞いてはいない。
「まあ、雑誌社としても確証がないのかウチのコンパニオンとは断定していないし、ウチとしても誤解を招く記事だと抗議をしたみたいですけど、これを読む読者がどう思うかまでは責任持てませんからね。あと4日、少しでもイメージアップにつながるようにがんばってちょうだい」
 犯人の特定もできず、手がかりも無い状態に半分あきらめたのか、柳瀬真琴はそれ以上何も言わなかった。ただ、コンパニオンのコスチュームにかかわった部署の社員を中心に今後社内調査が行なわれるとの事だった。
「それは確かに謎だわね…静香はどう思う?」
 食後のコーヒーをすすりながら美雪が私に聞いた。
「私たちの中の誰か…とは思えないし…調査の結果を待つしかないんじゃない?」
 私は半ば投げ遣りに答えた。何も知らなければ客の妙な視線を感じても、何か変だな…で済ませられた。でも明日からは違う。おもらしをしたコンパニオンという疑惑の眼差しと知った上で、その中で仕事をしなければならない。
 社内調査の結果が出る頃はモーターショーは終わっているし、開催中に結果が出たとしても、それを公表するのは恥の上塗りだ。どの道、私たちは弁解も釈明もできないままに残り4日間を過ごさなければならない。投げ遣りにもなるというものだ。
「誰かが一着余分に発注したのかしら?」
 私の隣で詩織が言った。テーブルには翔子も美咲も座っている 元々は私が美雪に呼び出しの理由の説明をしていたところだったが、いつの間にかアサクラのコンパニオンの三分の一近くが集まっていた。
 当然、例の写真週刊誌の一件は伝わっていて、話題はそこに集中した。
「だとしたら、誰がどうやって? 何のために?」
 美雪が首を傾げながら言った。さっきから話に花を咲かせているのは詩織、美雪の2人ばかりだ。写真に撮られている衣装がスカートの方だったから私や翔子よりも気が楽なのかもしれない。
「いいわよね、ショートパンツの子たちは疑いがかからなくて」
 翔子が口をとがらせて言った。
「ぼやかないの。濡れ衣なんだから堂々としてなよ」
「そうそう、人の噂も七十五日って言うじゃない」
 美雪と詩織が口々に気楽な顔で翔子をなだめた。
「よく言うわよ。逆に言えば2ケ月半も人の噂に上る事なのよ」
 翔子がすかさず言い返した。
「そうね、ショーの間よりも職場に戻ってからの方が問題かもね」
 美雪がしみじみとつぶやいた。

 開場と同時に、さっきまでガランとしていた会場が人の波で埋まった。いよいよ東京モーターショーも最終日だ。
 写真週刊誌の影響は日毎に下火になり、昨日あたりからは好奇の目で見られるような事もなくなってきたが、さすがに呼び出された次の日は口コミの噂が広がったのか明らかに反応が違い、中には週刊誌と私たちを見比べている失礼な輩までいた。でも今日は、今のところ平穏無事に済んでいる。
「心配するほどの事なかったね」
 控え室に戻って一息ついてから詩織にそっと耳打ちした。
「まあね、でも職場に戻ってからの方が大変かもよ」
 私は詩織のその一言で一気に現実に引き戻された。確かに詩織の言う通りだ。当然私たちも社内調査の対象になっているはずだら、あと1〜2回は呼び出されて根掘葉掘り聞き出されるだろうし、職場の好奇の目も覚悟しなければならない。
 私は柳瀬真琴に呼び出された晩に美雪から聞いた出来事を思い出した。
 美雪の中学時代、修学旅行先の京都での事だ。グループごとの自由見学の日、嵯峨野あたりを散策していたグループの中の一人の女の子がトイレに行きたくなった。男女混合のグループだったためにその子は恥ずかしくて言い出す事ができずに我慢し続けていた。
 お寺の見学のついでにトイレを借りようと思ったが、折しも京都は古都税反対運動で拝観停止をしている寺が多く、…結局、そのまま旅館に帰る路線バスに乗ったが、夕刻の渋滞のために途中下車もままならず、その子は乗降口の近くに立ったままで泣きながらおもらししてしまった。
 バスの乗客の好奇の目も辛かったが、もっと辛かったのは旅館に帰ってからだったという。自分のクラスから他のクラスに噂が伝わるのに一晩とかからず、学校に帰った後は他学年にまで噂は広がって、しばらくの間は廊下を歩くたびに視線を感じて辛かったらしい。
「バスの乗客に見られただけなら…その時だけ耐えればいい事なんだけどね…」
 美雪は遠くを見つめる目をしてつぶやいた。そしてため息を一つつくと、私の方に向きなおった。
「…人の噂って怖いわ…。私たちも職場に戻ってからの方が辛いかもしれないわね……そう…あの時と同じように…」
 美雪がしみじみと言った。私はもしかして…と思ったが敢えて聞く事は避けた。
「静香はもう察しがついたでしょ? そのおもらしした子って…私なの…今だからこ
うして話せるけどね…」
…ふーん、あの美雪がね…
 私はステージで1100CCのスポーツバイクに跨がっているはずの美雪を想像してそのギャップに苦笑した。ううん、苦笑したのはそのためだけではない。あの晩美雪を元気づけるつもりで話した私のドジ話を思い出したからでもある。
 ほんの半年ほど前、トイレを我慢して帰宅した私は玄関からトイレに直行した。勝手知ったる自分の部屋、明かりもつけずに飛び込んで便器に座ると同時に膀胱の緊張を緩めた。何度も経験しているトイレスクランブルの手順だった。
 ところが思わぬところに誤算があった。その朝たまたま便器の蓋のカバーを取り替えて、その蓋を閉めたままだったのだ。座った瞬間、しまった! と思ったがもう後の祭りだった。
 思い切り緩めてしまったあそこを締める事は事実上不可能で、私は膀胱内のほとんどを厚いタオル地のカバーの上にしてしまった。もちろん、カバーが全部吸収しきれるはずもなく、トイレの床は水浸しで、朝取り替えたカバーはたった半日で洗濯機行きとなった。それを聞いた美雪が大爆笑したのは言うまでもない。
…あーあ、あんな事話さなければよかったな…だいたい美雪が……
 私はまた苦笑した。
 最終日の閉館時間はいつもより早い。本社はもちろん、工場や研究所からも応援が来て撤収作業にかかる。床下の配線や大がかりなステージ装置は明日になって専門の業者が解体に来るそうだ。
 私たちは今夜までホテルに泊まり、明日引き払う事になっている。明日には皆それぞれの職場に戻ってしまうので、スタッフ全員が揃う今夜はホテルで打ち上げだ。
 …と言っても、全員がホテル住まいというわけではないので、ほんの2時間程度のパーティーだという。
 残務処理で遅れる人を残して始まったパーティーは、失敗談やら裏話で盛り上がりを見せ、案の定、酔いがまわったあたりで写真週刊誌の話題になった。柳瀬真琴がセクハラを盾に止めに入らなかったら、私たちは延々下ネタの質問責めの餌食だったに違いない。
 私はふと、美雪があの夜言った一言を思い出した。
『噂は疑惑だろうと事実だろうと容赦はしないわ』
 その通りだ。事実であろうがなかろうが、他人の噂とというものはその場が楽しくて自分の好奇心が満たされればいいだけの事だ。
 その噂に尾ひれが付いて一人歩きを始めた時には、当事者は弁解の余地すらも与えてもらえない。噂とは悪意なき残酷な伝言ゲームだ。
 そんな事をぼんやりと考え込んでいると、不意に美雪に声をかけられた。
「ちょっと、静香! 手伝ってよ」
 見ると、翔子が美雪に抱えられてぐったりしている。
「あ…あたしもうダメ…立てない…」
 足元がおぼつかなくなった翔子を美雪と二人で抱えてパーティー会場を出る。翔子の部屋の鍵を詩織から借りるのを忘れていたので、とりあえず私たちの部屋で休ませる事にした。
「翔子ってお酒に弱かったのね。強そうに見えるけど」
「調子に乗って一気に飲みすぎたのよ。じゃ、私は詩織に鍵借りてくるね」
 美雪が言い残して部屋を出る。彼女は出身が熊本だそうだが、そのせいか酒には滅法強い。酔わせて落とすつもりだった人が逆につぶれてしまい、美雪にタクシーを呼んでもらったという笑えない話まであるとついさっき聞いたばかりだ。
 私はどちらかと言うと強い方ではない。お酒がまわってきてそろそろ眠くなってきて、翔子の介抱はパーティーを抜け出す絶好の口実だった。
「ただいま、鍵借りてきたよ」
 美雪が詩織と連れ立って部屋に入ってきた。
「ごめんね、楽しんでたところなのに」
「いいのよ、抜け出せてラッキーだわ。飲み足りない猛者たちはこれから外で続きをやるらしいけど…。美咲と佐和子が誘われてたけど、行ったのかな?」
 詩織も結構けろっとしている。酒と宴会は嫌いなくせに、遺伝体質で酒には強いらしい。
「ちょっと…どうしよう。翔子すっかり寝込んじゃったわよ」
 翔子の顔色を覗き込んでいた美雪が言った。見ると、翔子は疲れきった子供のように熟睡している。詩織がしばらく揺り起こしていたが、翔子はうわ言のような声を洩らすだけで一向に起きる気配がない。
「3人いれば運べない事はないけど…ちょっとみっともないわよね…」
 詩織が腕組みをしながら言った。たしかに酔っ払った若い女性…しかも完全につぶれて3人がかりで運ばれている姿というのはみっともいいものではない。
「じゃ、詩織と翔子でこの部屋使いなよ。荷物だけ入れ替えてさ。私と静香が詩織たちの部屋に移るから。ね、いいでしょ静香」
 美雪が提案した。彼女はこういう時、考えるより行動に出るタイプだ。
「そうね、荷物全部持っても翔子よりは軽いしね。どう? 詩織は」
「私はいいわよ。翔子は…事後承諾ね。…じゃさっそく始めようか」
 私と美雪はそれぞれの荷物を持って隣の部屋に移した。入れ代わりに詩織が自分と翔子のバッグを重そうに持って私たちの部屋に入り、私と美雪もそれに続いた。
「ねえ、翔子だけどさ…このまま寝たら服がシワだらけになっちゃうよね?」
 詩織が翔子に毛布を掛けようとして手を止め、私に聞いた。
「そうねぇ…着たままだと寝汗かくしね…」
 気心の知れたスタッフとのパーティーとはいえ、温泉旅館の宴会とは違うから浴衣を着て出たわけではない。皆そこそこにお洒落して出席していた。
 もちろん翔子も例に洩れず、ボトルグリーンのタートルネックに漆黒のベルベットのミニキュロット、上に渋いグリーン系のチェックのジャケットを羽織るというラフだけど落ち着いた出で立ちで出席していた。
「翔子には悪いけど着替えさせちゃおうか?」
 詩織がベッドに横たわった翔子を見ながら言った。
「そうね、備え付けの浴衣があったからそれでいいんじゃない? 翔子の荷物開けるわけにはいかないものね」
 そう言うと、美雪はクローゼットまで浴衣を取りに行った。私と詩織はピアスに引っ掛けないように注意しながらセーターを脱がせる。思ったより大変だ。
 スカートはさすがに手こずったので、翔子の脚をベッドの縁から出して引き抜くように脱がせた。翔子の息がかすかに乱れる。
「これだけされても目が覚めないなんて…、翔子を襲う気になったらお酒を飲ませれば事足りるわね」
 私は肩をすくめて詩織を見た。
「疲れもあるんじゃない?」
 翔子のスカートを手慣れた手つきで畳みながら詩織が言った。
「明日になったら翔子、びっくりするかしら? 1302の部屋のはずが1301に変わってるから」
 浴衣の用意を済ませた美雪が悪戯っぽく笑った。
「私は気付かない方に賭けるわ。…で、タイツだけど、どうする? このまま浴衣着せちゃう?」
 私の目の前には、エバーグリーンの薄手のタイツに包まれた翔子の脚がベッドサイドから無造作に放り出され、白いレースのお洒落なショーツがタイツ越しに透けて見える。男性ならずともも思わずドキッとする姿だ。
 同性とはいえ、ここから先は下着の部類だから脱がせるべきか迷ってしまう。
「脱がせようよ。穿いてるとうっとうしいじゃない。寝る時ぐらいは脱がなきゃ」
 ルームメイトの詩織が言うんだから心強い。私は脱がせやすいように翔子の足首を持ち上げた。
「詩織が責任とってね。主犯は詩織で私は共犯だからね」
「はい、はい、わかったわよ。ついでに強制わいせつ教唆もかぶってあげるわ」
 そう言って詩織が翔子のウェストに手をかけた時、翔子はまたうわ言のような吐息を洩らした。ギクッとしたように一瞬手を止めた詩織は、しばらく翔子の顔を見て様子をうかがった。まるで犯罪者の心理そのものだ。
 翔子がふーっと大きなため息をつき、体を弛緩させる。私は、翔子が目を覚ましそうなのが気がかりで、持ち上げていた足首をそっと降ろした。そして持っていた手を離そうとした時、目の前にポタポタと水滴が落ちてきた。
……えっ?? 何? 誰か水でもこぼした?……
 そう思って水滴の跡をたどりながら見上げたら、頭の上で詩織がすっとんきょうな声をあげた。
「…う…うっ…そ…。うそでしょー!!」
 私も詩織の声とほとんど同時にその訳が理解できた。水滴の源は翔子の脚の付け根からだった。エバーグリーンのタイツの奥のショーツが濡れている……と言うより、濡れている真っ最中だった。
…え?…まさか…これって…おもらし?…
 22歳という立派な大人の女性の失禁という信じがたい情景を目のあたりにして呆然とする私と詩織におかまいなく、翔子のショーツから溢れた水はタイツにいく筋もの沁みを残して流れ、ベージュ色のカーペットに吸い込まれていった。
「急いで、タオルタオル!!」
 突然弾かれたように詩織が叫び、美雪が持っていた浴衣を放り出してバスルームに駆け込んだ。美雪が持ってきたバスタオルが翔子の股間と床にあてがわれた時にはもうすでに手遅れで、カーペットには野球のベースぐらいの沁みができていた。
 せめてもの救いはベッドの被害が縁の部分だけだったのと、翔子が今だに眠り続けている事だけだ。私たちは鎮火した火事場にたたずむ当事者のように、放心状態のまま翔子を囲んでいた。
「こういう事ってあるんだね…。話には聞いた事あったけど…」
 しばらくの沈黙の後で詩織がぽつりと言った。
「翔子…二度とお酒飲まないかもね…」
 失態に気付いた時の翔子の心中を察して私がつぶやいた。
「何とか翔子が目を覚ます前に着替えさせちゃおうよ。うまくすればバレないかもしれないし…」
 美雪が言う。たしかにその通りだ。今のうちに着替えさせてしまえば何とかなるかもしれない。タイツやショーツなら一晩で乾くだろうし、床やベッドは水をこぼしたと言えばいい。
 となれば善は急げだ。翔子には悪いけど、バッグを開けさせてもらって替えのショーツを出さなれればならない。そう思って彼女のバッグを開けようとしたら、後で聞き覚えのある眠そうな声がした。と同時に、詩織と美雪の息を呑む気配も感じた。
 万事休す…。私は翔子の眠そうな声が驚きの悲鳴に変わり、やがて弱々しい泣き声になるのを背中で聞いた。
 バスルームから止めどなく降り続く雨のような音が静かな部屋に染みわたる。今、翔子はシャワーを浴びている。後始末を済ませ 彼女が落ち着きを取り戻すまでに優に2時間を要した。
 翔子が自分の失禁を私たちの悪戯と勘繰るのが一番不安だったが、彼女は自分の失態を比較的素直に受け入れた。
「失敗したのね…私…」
 泣き止んだ翔子が最初に発した言葉がそれだった。洩らしたとは口が裂けても言えなかったのだろう、彼女は失敗という言葉を使った。
「夢…見てたの…。トイレが見つからない夢…。いつも使っているトイレがなくなってて…それで…会場のどこにもなくて…交代の時間は迫ってくるし…。だから、しかたなく人気のない階段の陰でしたの。…ホッとしたら目が覚めて…そしたら……。
 その後翔子は自分の失禁の言い訳をするように、時に自嘲的な照れ笑いを浮かべ、時に泣きそうな顔になって話し続け、しまいには感極まったのか、まだたっぷり水分を含んでいるカーペットの上に崩れ落ちて泣きだした。
「もういいわよ…翔子。私たちは今夜の事は忘れるから…ね…」
「そうよ、人前じゃなかっただけラッキーと思わなきゃ」
「服だって無事だったんだから…高かったんでしょ? あのスカート」
 私たちは口々に翔子を慰めた。気休めみたいなものだけど何も言わないよりはマシだろう。
「さ…シャワー浴びてさっぱりしよう…ね…」
 小さい子に優しく言い含めるように詩織が翔子の手を引いて連れて行き、美雪は隣の部屋から翔子用にバスタオルを持ってきて、私は丹念にカーペットの沁みをタオルに含ませて洗った。
 ドライヤーでカーペットとシーツを乾かし終わった頃には時計の針は午前3時をまわっていた。
 私たちは、…誰にも言わないでね…と何度も翔子に念を押されながら、それぞれのベッドに潜り込んで眠った。
 一晩、それもたった4時間程度眠っただけで、昨夜の出来事が遠い昔のように感じられた。でもさすがに翔子は眠れなかったのか泣いたのか、まっ赤な目をしている。
 私たちだけでなく、他の子や男性社員にまで伏し目がちになっているのは滑稽というより哀れにさえ見えてくる。
 当然の事だが、朝食の席でもパーティーを中座した翔子のその後を気にするような人はいなくて、皆二日酔いの頭をかかえて他人の事なとどかまっていられないといった風情だ。
 チェックアウト後ロビーで軽いミーティングを済ませ、モーターショースタッフとコンパニオンはオートバイメーカーの一社員に戻って、それぞれの赴任地に散って行った。
 祭りの後はいつも寂しさがつのる。そこここで名残りを惜しむ人たちが握手をしたり、名刺の交換をしている。私たちも翔子を囲んでアドレスと電話番号の交換をしながら、昨夜の出来事の他言無用を誓いあった。
 今度の正月はいつもより年賀状が多く来る。そう思うだけで私は少し嬉しくなってきた。
 本社が差し向けたバスに乗り込み、2年後は一見学者として…できれば彼と二人連れで来てみたい…シートをリクライニングさせながら私は2年後に思いをはせた。
 …クルマ好きの人だったらいいな…私が2年前にここでコンパニオンしてたって言ったら信じるかな……翔子と詩織は22歳だから、もしかすると次のモーターショーにもコンパニオンとして出ているかもしれない…。
 私は2年後の事を寝不足の頭でぼんやりと想像しながら浅い眠りに落ちていった。来週からの仕事や社内調査の不安が一瞬脳裏をよぎったが、すぐにどうでもよくなってきた。
「なるようにしかならないって…」
 私はバスの振動に身を任せて再び眠りに落ちていった。

 ひさしぶりの職場。私は転勤先に初出社するような面持ちでドアを開けた。今日は2時間遅れで出社していいとの事だったのでその通りにしたが、こんな事ならいつも通り出社すればよかった。
 低いボリュームでBGMが流れている経理部会計課のフロアには、パソコンのキーを叩く音とOAペーパーの書類のめくれる音だけが妙に響いていた。
「課長、片桐です。長い事留守にして申し訳ありませんでした」
「おっ、帰ってきたか。ご苦労さん。どうだったね? モーターショーは」
 書類から顔をあげた矢口課長がまっすぐ私を見て言った。私をコンパニオンに推薦したのは誰あろうこの人だ。
「ええ、おかげさまでいい経験ができました。でも、仕事はここの仕事の方が楽ですね。立ち仕事は疲れます」
「そうか。でも会社というのは社員に楽をさせるようにはできていなくてな…片桐君の留守中にピンチヒッターを引き受けてくれた佐久間和美君をそのまま君の後釜に据える事にしたんだ。人事の活性化ってやつでな」
「えっ…じゃ私はクビですか?」
「冗談言ってもらっちゃ困る。当面君は佐久間君に仕事を教えてサポートしてもらう事にする。まあ、今月いっぱいってとこかな。その後は入れ替わりで佐久間君のいた財務係に移ってもらう予定だ」
「じゃ、財務で佐久間君がやっていた仕事は誰が?」
「庶務課の谷山君がやってるよ。彼女は元財務だったからね」
「…はい、わかりました」
 最悪の人事だ。佐久間クンに仕事を取られるのはいいとして、問題は財務に来た谷山さんだ。俗に言うお局様という古株で、私も何度イヤミを言われたかわからない。
 それだけならまだしも、庶務課はリストラで大幅縮小されて庶務係として総務課に統合される予定なのだ。当然人件費のかさむ古参OLは邪魔者扱いされて、この機会に一掃されるという噂だ。谷山さんにしても私が財務に落ち着けば庶務に返される事になってリストラの対象になるだろう。
 かといって谷山さんがおいそれと辞めるとは思えない。どちらかといえば私が財務からいびり出される可能性の方が高い。でも、先々の心配を先取りしても何の足しにもならない。いざとなったら辞めるまでの事だ。さて…仕事仕事。佐久間クンをしごく事にしよう。
 佐久間クンは和美という名前だけど、れっきとした男子社員だ。しかし他の男子社員と比べるとずっとひ弱な感じがする。撫で肩で細身で色白、まるで歌舞伎の女形のようだ。名前といい風体といい、さぞかし少年時代はガキ大将にからかわれたに違いない。
 私と彼とは同期入社で、新人研修の時には不健康そうなヤツと思っていたが、今はそこそこ好感を持っている。裏表のない性格で同性の友達も多いし、女性社員にも優しい。唯一気に入らないところは、私よりまつ毛が長い事ぐらいだ。
「あ、お帰りなさい。悪いね、仕事取っちゃって」
 私に気付いた佐久間クンが振り返って言った。
「あっさり取れるほど会計の仕事は楽じゃないわよ。1ケ月間みっちりしごくから覚悟しといてね」
 そんな言葉とは裏腹に、ああ…できれば佐久間クンがずっと仕事を覚えてくれなければいい。財務に行って谷山さんにいびられたくない…そんな事が頭の中をかけ巡った。覚悟はしたものの、憂欝なのは変わりない。

 1995年もそろそろ終わろうかという頃、私は予想通りお局様の谷山女史にいびられながら仕事に追われ、半月ほどを過ごしていた。佐久間クンの覚えがよくて、約束の1ケ月を待たずして私はさっさと財務に廻されたのだ。
「この程度の事なんて新入社員だってこなすわよ。あんた何年ここで仕事してるの?
モーターショーのコンパニオンでちやほやされてたって何の役にもたたないんですからね。これじゃ給料泥棒だわ」
 谷山女史はわざとらしいため息をつくと、私を押し退けてパソコンの前に座った。
…何も教えてくれないのに出来るわけないじゃない…
 心の中で罵ってはみたものの、上司の前であからさまに無能呼ばわりされた私は耐えきれず涙をこぼした。私を蹴落として自分を売り込むパフォーマンスだと解っているのに、悔しくて悔しくて今にも声をあげて泣きだしそうだった。
「これじゃ、まだまだ引退できそうもないわね」
 引退する気など微塵もないくせに、聞こえよがしに独り言をつぶやく谷山女史に頭を下げると、私はトイレに駆け込んで声を殺して泣いた。
…もう何度目だろう…
 泣き腫らした目で化粧を直している私の後に、いつの間にか一つ年下の添嶋直子が立っていた。会計課の頃の仲間の一人で、私の仲のいい友達の一人でもある。
「片桐さん、負けちゃだめよ。谷山さんが片桐さんに勝っているのは勤続年数だけなんだから。もうちょっとがんばれば追い付けるから…ね。がんばろう」
 彼女だけでなく、他の女子社員や、時には男子社員までもが落ち込んでいる私を慰めてくれる。でも、それが谷山女史の神経を逆撫でしている事も私は知っている。
「ありがとう。でもあまり私に関わらない方がいいわよ。添嶋さんまで睨まれる事になるから」
 何度も泣かされ、会社を辞めようと思った事も一度や二度ではなかった。でもなんとか踏み止まったのは負けたくないという気持ちだけだったと思う。しかし、いつしか私は、私に辛く当たる谷山女史が哀れに思えてきた。
……彼女も会社にしがみつこうと必死なんだ……
 そんな同情的な感情が心の奥底に芽生えてきた。私を追い出したところで、いづれまた人員削減の対象になるかもしれないのに…居続けられる保証なんて何もないのに
…それでもいいなら、それで気が済むのなら私が会社を辞めてあげる……そんな気になってきた。
 あくまでも、なってきたというだけで辞めると決めたわけではない。でも、私が辞める日は唐突にやってきた。
 その日、私はいつものように谷山女史に仕事の些細なミスで説教をされていた。いざとなったら辞める覚悟があるから多少気は楽だが、それでも自尊心が傷つく事に変わりはない。
 私は涙をためながら震えていた。しかし、震えは自尊心からではなかった。私はこの時トイレを我慢していたのだ。しかもかなり切迫している。私だけではない、他の社員もいつもよりトイレが近いようで、入れ替わり立ち変わり席を立っていた。
 原因は今日の昼食のメニューだ。今週の社員食堂のメニューは国際食という事で、日替わりで各国の料理が出されていた。昨日はパエリヤだったが、今日はタイ料理だった。本場のタイ料理よりは辛くないとはいえ、全部食べおわった後は口の中がヒリヒリする。特に、スープのトム・ヤム・クンは効いた。
 辛いものが好きな私でも、口の中を正常に戻すにはいつもの倍以上の水分を必要とした。しかも運の悪い事に、午後一番に予定されていた財務処理ソフトの入れ替えに伴う研修に欠員ができたとの事で急遽私が行く事になり、私はトイレに行く暇もなく第二研修室に直行した。省エネのため、研修開始直前に暖房を入れたばかりの研修室はまだ肌寒かった。

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