OLエッチ体験談その2


 私が会社から姿を消してから一週間後、私と添嶋直子は本社から2駅離れた街の喫茶店にいた。テーブルには退職に必要な書類を入れた封筒が所在なげに置かれてる。
私は軽いため息をつきながら淡いブルー地に印刷された社名を眺め、この一週間を振り返っていた。
 直子に着替えの制服を借りてロッカーまで行き、他の社員と顔を合わせないように大急ぎで着替えて帰ったあの日…濡れたショーツとパンストはトイレに捨てたから、ベージュのコートと紺のスーツの下は替えのパンストだけだった。
 入社以来一番長く感じた週末を部屋で過ごし、月曜日は出勤の支度をして出たもののどうしても出社する気になれず、そのまま電車を乗り越してあてもなく一日を過ごした。見るもの聞くものすべて虚しかった。
 部屋に帰ると留守電に課長からのメッセージが入っていた。私はわずらわしくて電話のモジュラージャックを引き抜いた。
 3日間隔絶された生活を送り、人恋しさと不安と虚しさとでどうしていいのかわからなくなった頃、何の前触れもなく添嶋直子が私の部屋を訪れた。
 無断欠勤を続ける私の様子を見るように言われて来たのは明らかだったが、私は彼女を招き入れた。
 辞める決心はついていた。ただ、そのために会社に顔を出すのがつらかった。直子には悪いが、その旨を課長に伝えてくれるようにだけ頼んだ。
「一応、片桐さんに言われた通りの書類は持ってきたんですけど…課長が言うには会社の水に馴染んだばかりなのに辞めるのはもったいない…って・・・」
 直子の声にハッと我に返った私は顔を上げた。本来、こういった進退にかかわる事は所属長との間で取り交わすべき事なのだが、私の場合は事が事なだけに、課長が気を利かせて仲介役に直子を差し向けてくれた。
「でも…いくら何でも今さら会社には戻れないわ。直子だったら戻れる?」
「戻れないと思います。…でも、課長は会計課に戻るのがいやなら他の部署…例えば営業所や販売店に異動する事も考えてるって言ってました」
 異動…それは私も考えた。でも噂が異動先に届くまでにそれほど時間を要しない事を私は知っている。そしてその噂の信憑性と情報の正確さとは必ずしも比例しない事も…。
…おもらし疑惑のコンパニオンがオフィスで失禁だなんて…格好の噂の種だわ…
 結局この日、私の進退は決まらずじまいだった。
「大事な事ですからゆっくり考えてください。それから…ここ数日の無断欠勤は有給扱いにしたそうです。その方がいいだろうって…課長が…」
「ありがとう…。手間かけるわね…」
「いいんです、そんな事。それより…できる事なら…会社…辞めないでください」
 そう言い残して添嶋直子は伝票を持って立ち上がった。その時になって初めて私は直子が会社の制服を着ているという事に気付いた。もう一度社に戻って報告するのだろう。
 直子の後ろ姿を見送って、一人残された私はなんとなく世間から取り残されたよう
な気分になった。ひと通り書類を眺めたあと、私は冷めた紅茶を飲み干して冬枯れの街に踏み出した。
 直子や矢口課長の心遣いが嬉しかった。でも、だからといって復帰できるというものでもない。街に流れる陽気なクリスマスソングが何となくわずらわしかった。
 街路樹にもたれてため息をついていたら、私の前に一台の赤い車が止まった。ユーノスロードスターだ。止まると同時に助手席のウィンドがせわしなく下がる。
…ナンパなら願い下げよ…
 そう思ってさりげなく無視していたら不意に名前を呼ばれた。
「やっぱり片桐さんだったか。」
 声の主は佐久間クンだった。
…何でこんな時間に佐久間クンが…
 突然現れた佐久間クンに私は少し慌てた。人とかかわり合うのが煩わしく感じられるくせに、妙に人恋しくてブルーな私の心は振り子のように揺れ動いた。
「佐久間クン…会社は?…」
 私は精いっぱい平静を装ったつもりだったが、ひきつった私の口をついて出た言葉はそれだけだった。私が失禁した時も彼は同じ課内にいたはずだ…そう思うだけで身が縮む思いだ。
「今日は有給だったんだ。来年に繰り越せない分は年内に取らないと・・・組合がうるさいからね・・だから」
  佐久間クンが口にした有給という言葉で、私はついさっき直子に聞かされた事を思い出した。そういえば私も有給だったんだ。でも私のは有給扱いというだけで事実上無断欠勤だ。明日も明後日も…たぶん、退職するまでずっと…。
「そっか・・・で、どこか行ったの?」
「ちょっと提出期限の書類を出しに社に顔を出して、それからそこのガソリンスタンドで給油したところ」」
 彼が方角を示すように軽く顎をしゃくって答えた。
「それでこれからどこかに行くの?」
「行けと言われればどこでも行くけど。どこか行きたいところある?」
「別にないわ。…これから帰るところだから」
 私は素気なく言った。
「じゃ、送るよ。せめて駅まででも」
「何言ってるの、駅はすぐそこよ」
 でも、街の喧噪から逃げたかった私は何となく成りゆきで佐久間クンの車に乗ってしまった。
「佐久間クンがこういう車の趣味とは知らなかったわ。しかも赤なんて…」
 私は乗るが早いか佐久間クンにそう言った。別段、彼の車に興味があったわけではない。ただ、話題が途切れたら私の失禁事件の事を聞かれそうで恐かっただけだ。
「元々は兄貴の嫁さんが乗ってた車なんだけどね、子供が産まれたからファミリアに替えたんだ。でも初期型のだから下取り値が安くてね…それで僕が出産祝いがわりに買い取ったんだよ」
 佐久間クンはそこまで説明すると、私がシートベルトを着けたのを確認してから車の切れ目を見計らって走り出した。ユーノスには珍しいオートマだった。
「この車オートマなんだ」
「うん…オートマは楽でいいけどユーノスには似合わないよな…」
「でもNSXやポルシェにだってオートマがあるわ」
「いや…ポルシェのはオートマといっても・・・」
 佐久間クンがポルシェの説明をしているうちに駅の標識が目に入ってきた。
「あ、駅のロータリーは混んでるからここでいいわ。ありがとう」
「そう? 悪いね、たった数百メートルだけで」
「ううん…ありがとう」
 私はたった今乗ったばかりのユーノスからあわただしく降りた…と同時に、ブチッといやな音がしてウェストのあたりが妙にルーズになった。まさかと思って手探りで触ってみるとスカートのホックが物の見事にちぎれ飛んでいた。
…どうしよう…このままだとファスナーが開いてスカートが落ちてきちゃうし…バッグと書類の入った封筒を持ったままじゃスカートを押さえられないし…
 駅の入り口を見ながら思案したあげく、私はドアを開けたままのユーノスにもう一度潜り込んだ。
「スカートのホックが外れたみたいなの。悪いんだけど…送ってもらえる? 京王線の駅でいいから」
 いくら何でもアパートがある日野市まで送ってとは言えない。でも、京王線なら乗り換えなしで帰れるからまだ何とかなりそうだ。
「それなら直接送るよ。多摩テックのあたりだって言ってたよね?」
「そうだけど…悪いわ、遠いし…」
「いいよどうせ暇だし。…となると…高速4号新宿線から中央高速が早いかな」
 佐久間クンは数秒ほど頭の中でルートの検索をしてからおもむろに走り出した。
「ごめんね。東京の外れまで送らせて。佐久間クン23区内なのにね」
 佐久間クンは確か練馬区のはずだ。私も実家は一応23区内だが、受験を控えた妹に部屋を明け渡す事を口実に去年の春から日野市のはずれに部屋を借りて一人暮らし
していた。
「別にいいよ。明日も有給だから」
「そう…私も一応有給扱いなのよ。無断欠勤なのにね…」
 私は自分を嘲るように言って、自ら恐れていた話題に佐久間クンを誘った。日野までの道中、ずっと話題をそらして愚にもつかない世間話をする方がかえって苦痛だと思ったからだ。
「片桐さん…会社辞めるの?」
 突然佐久間クンが私に尋ねた。覚悟はしていたものの、私は答えが見つからず沈黙するしかなかった。
「昨日添嶋さんに聞いたんだ…そしたら…辞めるかもしれないって…」
「…そう…そうね…」
 私は膝の上に置いた退職関連の書類の入った封筒を見つめながらつぶやいた。
「戻ってきなよ。…そりゃ、戻りずらいだろうけど…みんな心配してる…」
「…わかってるなら言わないで。…心配かけてるのは悪いと思ってるけど…」
 恥ずかしくてとても復帰する気にはなれない。だけどそんな自分の都合で職場の仲間に心配をかけている。そんな苛立ちの中で、知らず知らず私は手にした封筒の端を握りしめていた。それっきり佐久間クンも何も言わなくなった。
 代々木ランプから乗った首都高速は相変わらず渋滞していたが、中央高速の方はウィークデーだけあって下り車線に限ってみれば空いていた。日野市の私のアパートに着いた時刻も、冬至を過ぎたばかりの今の季節だからだいぶ陽が傾いているが、夏だったらまだまだ日差しが強い時間帯だ。
「…さっきはごめんね…明日も休みなんでしょ? お茶飲んでけば?」
 気心の知れた仲間とはいえ佐久間クンも男性だ。普通なら部屋に招き入れるなんて事はしないが、こんな所まで送ってもらって『ご苦労様』と帰すわけにもいかない。
「…じゃ、ちょっとだけお邪魔しようかな」
 ちょっとためらってから佐久間クンは答えた。それを聞いて私は心の奥で少しだけ嬉しさを感じた。
「そのへんに座ってて、コーヒーでいいかな?」
「うん、何でも…」
 佐久間クンが遠慮がちに答える。私はホットカーペットと温風ヒーターのスイッチを入れると、そそくさとキッチンに立った。
 先月買ったばかりのマンデリンを戸棚から出す。一人の時はたいていインスタントだが、こんな時ぐらいはきちんと入れて飲みたい。
 コーヒーが入るまでの数分間で着替えとトイレを済ませたかったが、佐久間クンが気になって結局そのままにしてしまった。さりげなく落ちかかったファスナーを後ろ手で直す。
「殺風景でしょ? 女の子らしい物なんて何もないし」
 皿にクッキーを盛りながら佐久間クンの方を振り返って言った。
 私の部屋は6畳のフローリングのリビングの半分にホットカーペットが敷いてあり、その真ん中にガラステーブルが置いてある。
 隅にはスチールラックがあり、そこにはテレビとビデオとラジカセが窮屈そうに収まっている。隣に置いてあるパソコンがなかったら中学生の部屋以上に殺風景だ。
「この向こうが寝室なんだけど、そこは見ないでね」」
 ガラステーブルにクッキーを入れた皿と、ミカンを入れた篭を置きながら言った。5畳のフローリングの寝室はベッドとタンスとドレッサーでめいっぱいだ。
「モノトーンでまとめてあって落ちついてるね。モーターショーコンパニオンの部屋とは思えないよ」
 佐久間クンがひと通り部屋を眺め回して言った。コーヒーの芳ばしい香りがキッチンから漂い、コーヒーメーカーがコポコポと音をたてる。
「からかわないで。…もう昔話みたいなものよ」
「でも、あれを見ると昔話って気がしないけどね」
 佐久間クンの視線の先・・・パソコンラックの下の大きな紙袋からピュアイエローのメタリックトーンの生地が覗いている。中を見るまでもない、モーターショーで私が着ていたコチュームだ。
 コンパニオン一人一人に合わせて作ったコスチュームとはいえ、名目上は会社からの貸与品だ。しかし次回のモーターショーで使うわけでもないのでショーが終わった時点で個人管理に…平たく言えば貰ったという事になっている。
 あれから一ヶ月半…仕事が忙しかったり、谷山女史にいびられて落ち込んだりで、結局未だにクリーニングに出していない。妹が着たがっていたから早く出さなければとは思っていたのだが、とどめの一発が先週の失禁だ…すっかり忘れていた。
「片桐さん。…もしよかったらちょっと…あれ見せてくれる?」
「えっ?? あれを?・・・」
 私はちょっとためらった。下着はもちろんの事、コスチュームだろうと普段着だろうと自分の身に着けた物を異性に見られるのは恥ずかしいものだ。例えば…バレンタインのお返しショーツを貰ったとして、箱から出したその新品ショーツを見られるのは特に恥ずかしいという事はない。でもそれを一度でも穿いたら、たとえ洗濯済みでも見られるのは間違いなく恥ずかしい。
…でも失禁の話や辞める辞めないの話をされるよりマシか…
 自分で勝手に納得すると、紙袋に入ったコスチュームを佐久間クンの前に差し出した。タンクトップのような小物は自分で洗ったから、中に入っているのはブルゾンとスカートが各2セットだけだ。
 佐久間クンは丁寧に袋から出すと、裏返したり触ったりしてまじまじと見ていた。最初、もしかして制服フェチなんじゃないかと思った私も、彼の目つきや、見終わった後の手早くきれいに畳む手つきを見るにつけ、その手の人種とは違うと感じた。
「ありがとう、よく解ったよ」
「え? よく解った???」
「あ、いや、何でもない、こっちの事。…うちの実家が洋服の仕立屋やってるから仕事柄…いろいろとね…」
「そうだったの…何か手慣れてると思ったんだ。それで、いずれ家業は継ぐの?」
 紙袋を元通りに片づけながら私は聞いた。
「商売にならないよ。今だってお馴染みさんがいるから続けているだけで…」
「そうなの。あんまり真剣に見てたからモーターショーコスチュームのレプリカでも作って売り出すのかと思ったわ」
 私は冗談半分に言うと、コーヒーを入れにキッチンに向かった。友達の結婚式の引き出物で貰ったカップか初めて役に立つ。
「ごちそうさま。そろそろ帰るよ」
 佐久間クンはコーヒーを2杯飲み終わったところで立ち上がった。
「今日はありがとう…何だかすこし元気になった…。送ってもらってよかったわ」
 外に出るともうあたりは暗くなっていて、街路灯に照らされたユーノスが綺麗だ。
…何となくどこかで見たような気がする光景…ポスターだったかしら…
「まだこんな時間なのにすっかり暗くなったな…」
 佐久間クンが空を見上げてつぶやく。
「ごめんね、こんな所まで送ってもらったのにおもてなしもできなくて。 あっ、ミカン持ってく? 親戚からたくさん貰ってるの。もしよかったら持っていって」
「え・・・う、うん」
 私は佐久間クンの返事を背中で聞きながら部屋に帰り、キッチンの隅のミカン入った小振りな段ボール箱を抱えて戻ってきた。
「こんなに貰っていいの?」
「いいの、いいの。一人じゃ食べきれないし…。」
 佐久間クンが開けたトランクに箱を入れようとしたら、下にビニール袋の包みがあった。クリーニング店のものらしい。彼は、はっとした顔をしてあわててその包みを隠そうとした。
「あら何? 見られたら困るような物でも入って……」
 私は、段ボール箱をトランクに収めながら佐久間クンに向きなおって言いかけた。でもその言葉は最後まで言えなかった。
「佐久間クン…それって…それって……」
 ビニールの包みをトランクの隅に押しやっていた佐久間クンも動きが止まった。
 彼が隠そうとしている包み…その包みの中にあるのは…見覚えのある色使いの…ピュアイエローの服…そして見覚えのあるロゴ。
「どうして佐久間クンが持ってるの? ねえ、どうして」
 広げてみなくてもわかる。あれは紛れもなくアサクラの第31回モーターショーのコンパニオンのコスチュームだ。
…でも私のは部屋にあるし…他の子のかしら?…でもどこで?…
 私が驚いたのはそれだけではない。街路灯に浮かんだユーノスロードスター……どこかで見た気がしたのは私の錯覚ではなかった。写真週刊誌の記事…コンパニオンが路上で失禁したと報じられて大騒ぎになった記事の写真の片隅にドアを開けたままで写っていたのも確かユーノスロードスターだった。
 佐久間クンが持っているアサクラのコスチューム…そしてユーノス…信じられない仮説がいくつも頭の中を駆け巡る。気が付くと私は駆け出していた。
「ちょっと待って! 片桐さん…待って。話を聞いて! 」
 アパートの階段で追いついた佐久間クンが、ラグビーのタックルのように後ろから私にすがりついて叫んだ。
「離して! 帰って! お願い…話す事なんか…話す…事…な…ん…か……あ…ぁ」
 元々尿意を感じていた上に極度の緊張と興奮…陽が沈んだ戸外の冷え込み…そして後ろから抱えた佐久間クンの手に圧迫された下腹部…条件は十二分に揃っていた。
 私は悲しいほどあっけなく失禁してしまった。
「あ…ぁ…ぁ……」
 崩れ落ちないように階段の手すりに掴まるのが精いっぱいだった。そして私は尿意にあらがう術もなく、ただ呆然と生温かく濡れてゆく下半身の屈辱的な感覚を味わうしかなかった。
…なんで?…なんでこんな事に…
 止める事はおろか、緩める事すらかなわない…まるで尿意をコンロールする神経が欠落してしまったかのように、私の意志とは無関係の膀胱内の尿は止めどなく溢れて私の体と衣服と、そしてさびかかった階段を濡らし続けた。
「片桐…さん…」
 唖然としたような佐久間クンの声が後ろから聞こえた。そして彼はどうしていいのか解らないようにのろのろと立ち上がった。
「…あ…あの…こんな事になるなんて…あの…」
「どうって事ないでしょ…もう…二度目だもの…見られたの…二度目だもの…」
 そこまで言うと、私は手すりにからませた腕に顔を埋めて泣き出した。もう『見ないで』なんて言える状況じゃない。目をそらしてもらえれば何とかなるような失態じゃない。
 ホックが外れて落ちかかったスカートを濡らして無様におもらししている姿を間近で見られたなんて…もう泣くしかない。泣く事がせめてもの現実逃避にしか感じられなかった
「と…とにかく…部屋に入ろう。このままじゃ…いつ人が来るか…」
 私は佐久間クンに促されるままに夢遊病者のように部屋に入った。そしてドアの閉まる音で、私の意識は催眠術から醒めるように一瞬に現実に引き戻された。
 やっばり夢でも何でもない。ぐしょ濡れのショーツやパンストはもう冷えてしまって、スカートの裏地も気味悪く脚にまとわり付いている。
 私は振り返ると佐久間クンの頬を思いきり平手で打った。悲しみなのか怒りなのか解らない激しい感情が私を支配していた。
 やり場のないその感情を拳にこめて、私はめちゃくちゃに佐久間クンの胸を叩いた。叩いて叩いて…叩きまくった。そして叩き疲れた私はいつしか彼のジャケットの襟を握りしめ、その胸に顔を埋めて泣きじゃくっていた。
「…お願い…誰にも言わないで…お願い…誰にも……」
 そう言って泣きながら何度も呪文のように繰り返す私を、佐久間クンは不意に抱きしめた。あまりに突然で私は抵抗できなかった。
 時の流れが止まったような気がした。シーンとした部屋の中、私の耳に佐久間クンの心臓の激しい鼓動だけが時を刻む。私はジャケットの襟から手を離し、そっと彼の背中にまわした。

 研修担当者が社内の人ならともかく、ソフトメーカーから派遣されてきた人では研修中に中座してトイレに行くわけにもゆかず、私を含めて財務の女子社員5名は研修後半には講義など耳に入らなかった。
 当然、職場に戻る途中でトイレには行ったが、混んでいたので報告だけ先に済ませようと我慢してしまった。これが失敗のもとだった。係長に報告して、さあトイレ…という所で谷山女史に呼び止められてしまったのだ。
 一通りお説教が済んで、しおらしく谷山女史に頭を下げて、いつものようにトイレに向かおうとした。ところが、私はまた彼女に呼び止められた。
「ちょっと、どこ行くつもりなの?」
「あの…トイレですけど」
「この忙しい時に泣き顔の化粧直しにトイレに行くつもり? ただでさえ午後は研修で遊んでたくせに」
「そうじゃありません。本当に…我慢してるんです」
「ここに戻るまでにだってトイレはあったはずよ。なぜ今になって行くの」
「だから、報告を先に済ませようと…それで…」
「言い訳はもういいわ! いい事、明日締切の財務処理がこんなにあるのよ。今日だってあと2時間ちょっとしか時間がないわ。どういう事かわかるでしょ?」
 谷山女史は有無を言わさず私を席に押し込んだ。トイレを我慢したままで仕事など手に付くはずはない。トイレに行ってすっきりしてからの方がよっぽど効率がいい。
でもその一言を言う事はできなかった。…いえ、言う気にならなかった。
 最初から研修をさぼりと決め付けた谷山女史に何を言ってもムダと思ったのもあるが、生理的欲求を行使する権利を侵害した彼女に私は憎悪を向けていた。
…やればいいんでしょ…やれば。そのかわり我慢できずにおもらししたら、部下虐待だと言って泣きわめいてやるから…。
 私は、谷山女史に仕返しする事ができるなら失禁も辞さない覚悟だった。トイレも許してくれない陰険な先輩だと泣きながら罵り、今日限りで退職します言って帰るつもりだった。
 1時間ぐらいたっただろうか、激しい尿意にさっきまでの興奮も醒めてきて…やっぱりトイレに行こう…と思った時、谷山女史が一枚の伝票を私の前に叩きつけた。
「ちょっと、何なのよこれは! あなた真面目に仕事する気があるの?」
 その伝票には一枚のメモ用紙がクリップで挟んであった。それには年末年始のスキーで泊まる宿の名前と電話番号が書いてあり、おそらくそれは谷山女史の向いの机の添嶋直子宛てに置かれたものらしかった。何かのはずみで紛れ込んだに違いない。
「それ、私じゃありません」
 否定したものの、谷山女史がその通りに受け取るはずもなかった。…と言うより、受け取る気がなかったと言うべきかもしれない。よく見ればその伝票が用済みの不要な伝票で、今しがた財務処理で扱っていた物とは違うと気付くはずだからだ。
「まったく、遊びとおなじぐらい仕事もしてほしいもんだわ。目を離すとさぼるし、叱ればトイレで化粧直しだし…あなたっていつ仕事してるの? 私が管理職だったらとっくにクビよ」
 谷山女史は私に向き直ると、ため息まじりに低い声で言った。彼女は100%私のミスの時は聞こえよがしに叱るくせに、少しでも自分に不利な条件がある時には周りに聞こえないようにジメジメといびる。
 自分宛てのメモが原因で私がいびられていると知った添嶋直子が、どう取り成したらいいものかと気を揉んでいるのが視界の隅にチラッと映った。おそらく、メモをカムフラージュするつもりで彼女が不要な伝票にクリップで挟んだのだろう。
 谷山女史にそのメモを誤解されたのは確かに不運だったと言える。しかし運、不運なんてこの際どうでもよかった。私には彼女のそのひねくれた性格が許せなかった。そんな彼女を哀れと思った事もある自分にも腹が立った。
 そして私は無言で席をたった。今思えばひとつの賭けだったように思う。
「仕事ほったらかしてどこ行くつもり。叱られたからまたトイレで化粧直し?」
「トイレです。でも化粧直しじゃありません。……オシッコです」
 私はちょっとためらってからオシッコという言葉を口にした。トイレを我慢する辛さは誰だって同じはずだ。敢えてオシッコというストレートな言葉を使ったのは、そこの所を強調する意図があった。
 さっきは叱った勢いでトイレを禁じたかもしれないけど、排泄となればいくら意地が悪い人でもダメだとは言わないだろう。これを賭けと言うなら、かなり分のいい賭けのはずだった。こちらには基本的人権というカードがある。
 でも、返ってきた言葉は残酷なものだった。
「行きたかったらさっさと仕事を終わらせなさい。あなたはそれくらい言わないと真面目に仕事しないでしょ」
 恥を忍んで言った私の要求を、谷山女史は一言のもとにはねつけた。一度ならずも二度までも権利を踏み躙られて、私はキレかかった。
「でも、あの…もう我慢できないんです」
 怒鳴り返したい気持ちを精一杯抑えて、私はしおらしく言った。
「だったら我慢できるうちに仕事済ませちゃえばいいじゃない。簡単な事よ」
 私がどんな気持ちでいるのかを知ってか知らずか、谷山女史はけろっと言ってのけた。私がもっと気の強い性格だったら、きっと彼女をひっぱたいていた事だろう。ひっぱたかないまでも、彼女を押し退けてでもトイレに行ったに違いない。
「すぐに戻りますから…お願いします。あの…もう洩れそうなんです…」
 追い詰めた鼠をいたぶるような意地悪気な笑みをたたえた谷山女史に、私はもう一度トイレの使用を懇願した。否、正確にはこれは懇願ではなく最後通告だった。しかし、そんな私の覚悟など彼女に伝わるはずもなく、またしても拒否された。
 私はしばらくの間唇を噛みながら潤んだ目で谷山女史睨みつけた。私の中では二つに一つの選択を迫られていた。強行突破してトイレに行くか…それとも、失禁覚悟で席に着くか…。
「何睨みつけてんのよ、気分悪いわね。さっさと席に着きなさいよ」
 谷山女史のこの一言で、彼女を振り切ってトイレに駆け込むという選択肢が私の中砕け散った。私は無言でそっと席に着くと、伝票の一点を見つめたまま、思い切って尿道の緊張を解いた。
 必死で我慢すれば、もしかして勤務終了まで持ちこたえたかもしれない。最悪でもトイレでの失禁程度で済んだかもしれない。
 しかし、私は敢えてそれを放棄した。私にとって、それは谷山女史に対する精一杯の抵抗のつもりだった。
 尿道の緊張を解くとすぐに痺れるような痛みが尿道を襲った。自分では緊張を解いたつもりでも、トイレ以外の場所で、しかも服を着たままという状態が大きな心理的ブレーキとして働いている。
 私の中で、理性とか常識とか羞恥とか…いわゆるタブーを冒す事に躊躇しているもう一人の私が、神経の情報伝達を遮断している。
 私は一瞬ためらってから、もう一人の私に引導を渡すように下腹部に力を入れた。ショーツとパンストに包まれて椅子の座面に押しつけられた尿道から、苦しそうに最初のひと雫がこぼれ落ちた。
 そしてオシッコが出た感覚に一泊遅れて、スカートの奥にかすかな暖かい感触を覚えた。止めていた息を吐いて体の力を抜く。洩れはじめたオシッコは放っておいても止まる事なく、ゆっくりとそして確実に私の下半身を浸した。
 皆がそれぞれの仕事に就いている職場で、小さな…そして私にとって大きな事件が進行しつつあった。
 人知れず椅子に座ったまま失禁している私…そんな私をもう一人の私が冷静に見ていた。
……とうとうしちゃったね…私は止めたのに……
 そんな声が私の中をすり抜ける。ハッと我に帰る私。どこか遠い出来事のように感じていた失禁の感触が不意にリアルに襲いかかってきた。おねしょに気づいてハッと目を覚ました幼い日……あの時とまったく同じだった。
 お尻の下はもちろん内腿にも温かい感触が広がり、椅子の下の方ではかすかに水音さえ聞こえる。スカートなんてきっと雑巾のようにぐしょ濡れになっているに違いない。覚悟の上の事とはいえあまりの惨めさに涙が溢れ、私は反射的に顔を覆った。
「か…片桐さん! あなた…何なのこれは」
 水音を聞き取ったのか、私の仕草を不審に思ったのか、谷山女史が私の失禁に気付いたらしく、すっとんきょうな声をあげた。
 もちろん私が応えられるはずもない。顔を覆ったまま僅かにかぶりを振るだけだった。失禁はまだ続いていて、床にどれくらいの水たまりをつくっているのかすら私にはわからない。
 両手で覆った闇の中にかすかなざわめきを聞いた。連鎖反応のようにざわめきが広がって行くのが異常に敏感になった耳が感じ取る。
「片桐さん、いくら仕事が詰まっているからってトイレぐらい行けばいいじゃない。子供じゃないんだから」
 震源地に皆の視線が集まったと感じると、谷山女史はあわてて自己弁護ともとれる物言いをした。しかし、まさか私が失禁する事までは考えていなかったらしく、その口調はいつもの皮肉めいたものではなく、少し上ずっていた。
 私はここぞとばかりに部下虐待と泣き喚き、陰険な先輩だと罵るつもりだった。でも声を出そうとすればするほど、それは嗚咽となり啜り泣きになってしまった。私は自分でもどうしようもなくなり、いつしか幼児のように声をあげて泣きだしていた。
 もう谷山女史への仕返しもどうでもよかった。自分ではどうにもならないこの状況から救い出してほしかった。もし、課長から失禁するような社員はクビだとでも言われたなら、私は立ち上がって駆け出せたかもしれない。
 しかし、誰も私に手をさしのべてはくれなかった。当然かもしれない。失禁して泣いている同僚にかける言葉なんて見つからるはずもない。時間が止まったオフィスの中で、私のすすり泣きの声だけが延々と時を刻む。
 私に救いの手をさしのべてくれたのは添嶋直子だった。
「片桐さん…トイレ行こう」
 そう言って私の肩を抱くと優しく立たせてくれた。やっと歩きだした私の足元からピチャピチャと音が聞こえる。相当洩らしたらしい。私は顔を覆ったまま添嶋直子に付き添われてトイレに向かった
「片桐さん、ごめんなさい。私に来たメモが原因でこんな事になってしまって。私…私…どうしていいか…」
 可哀相にこの可愛い後輩は、私がどんな経緯でお洩らしに至ったのかを知らないばっかりに、すっかり責任を感じて泣きそうになっている。…かと言って、真実を語るわけにはいかない。
 谷山女史に一矢報いるためにお洩らししたなんて、冷静に考えてみれば馬鹿げた意地以外の何物でもない。戦艦に突っ込む特攻隊と同じで、己れの犠牲の方が圧倒的に多い。まともな思考ができる者なら考えもしない事だ。
「直子が気にする事じゃないわ。谷山さんを突き飛ばしてでもトイレに行くべきだったのに、それをしなかった私がいけないのよ。…馬鹿ね…私って」
 トイレまで来て、ようやく私は顔を上げて彼女に言った。
「馬鹿だなんて…そんな…私の方こそ…あの時私が…」
 馬鹿ね…と自嘲した本当の意味を知らずに、添嶋直子はまた落ち込んだ。
「あの…私、ロッカーに替えのスカートとパンストがありますから持ってきます。中に入って待っててください」
 何かしないといたたまれないのだろう。彼女はそう言い残すとトイレから駆け出していった。遠ざかる足音を聞きながら、もう二度と来ないであろう使い慣れたトイレの扉に鍵をかけた。

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