不感症改善計画


 そこはやたらと奇妙な部屋だった。壁には赤い線で六芒星が描かれた黒い布がかけられていたり、黒やぎの首の剥製が飾られている。壁に近い戸棚の上ではしゃれこうべの燭台にロウソクが揺らめき、巨大な壷の中ではコウモリやらヤモリやらといった不吉な生物が煮立てられていた。スペースの関係からか壷は壁に書かれた騙し絵ではあったが、うろんな雰囲気は十分かもし出している。
 その薄暗い部屋の真ん中に置かれたベッドの上に、真っ白なシーツの上で浮かびあがるように存在を際立たせている女の裸体があった。四肢をベッドの支柱にそれぞれ頑丈な手錠で縛り付けられて身動きが取れなくなっているところを、白衣を着て眼鏡を光らせているひょろ長い男が、手にした謎のマジックハンドで執拗に女性の局部を責めている。
「ふっふっふ、どうです? そろそろあなたも我慢がきかなくなってきたんじゃありませんか?」
「こ・・・こんなことであたしが思い通りになるとでも思ってるの!?」
 その女性は固定された手足をガチャガチャ動かしながら、ものすごく恥かしそうに噛み付くような棒読みで言い放つ。
「おやおや、これは強情なお嬢さんだ。それでは次の手段と行きますか・・・お次のマシーンは、と」
 白衣の男は嬉しそうに口の両端を吊り上げると、足元に置かれたダンボール箱の中をゴソゴソやり始めた。箱には、オレンジ色の文字で温州みかんと書いてある。
「・・・もういいわよぉ、弓太(きゅうた)ぁ」
 諦めたような口調で、ベッドの上の女性は諦めた。屈服とか服従とかそういうニュアンスは微塵も感じられない。ただただ投げやりだ。
「はぁ・・・これで織姫(おりひめ)の不感症改善計画の失敗も100回の大台に乗っちゃったね」
「うげ、もうそんなになるの?」
「初エッチのときから数えて、ね」
「数えるなよ、んなもの。それより早くこの手錠外してくれないかしら?」
 とりあえず冷静に突っ込んで、それからこの異常なシチュエーションの開放を要請する織姫。弓太はカチャカチャと彼女にかけられた手錠を外しながら、やけに元気に呼びかけた。
「それじゃぁ今度は『マッドドクターに作られた怪生物に襲われる女助手』編でも行ってみようかっ」
「どーしてあんたは『学者とその助手モノ』しか思い付かないの。ってゆーかなんでそればかり百個も思い付くのよ?!」
「こういうの嫌い?」
「飽きた」
 博物館に寄贈したくなるぐらい見事に身も蓋も無い言い方であった。

 翌日。今度こそ期待していいよ、と弓太からの電話で呼び出された織姫は、この台詞も101回目だわ、とか考えながら弓太のマンションへ向かった。
 部屋の中は相変わらず薄暗く、やぎの頭と魔法陣の大風呂敷きが壁に飾ってあった。もちろんしゃれこうべのキャンドルと壁の騙し絵も元気に違和感を放っている。
「実は今まで隠してたけど、僕、趣味でちょっと黒魔術をかじってるんだよね」
 趣味でこれかい、と突っ込みたくもある織姫だったが、弓太とは短くない付き合いなだけあってその台詞は飲み込んだ。
「これで隠してたつもりかっ!」
 もう片方の台詞までは飲み込めなかったようだ。突っ込みと同時にハリセンが良い音を響かせる。
 ともかく、そんな弓太の新案とはこうだった。まず魔法陣でインキュバスを呼び出すから、弓太が女性を悦ばせる手管を教わって織姫に試す。それで駄目だったらインキュバス自身に織姫とやってもらう。とのこと。インキュバスというのはサキュバスの男性版で、女性形のサキュバスが男の精気を吸うなら男性形のインキュバスは女の精気を吸う。性的な事が過剰に抑圧された中世ヨーロッパでは結構繁盛していた商売だという話を、弓太は織姫に語って聞かせた。
「ぐぅ」
 寝てる。
「織姫ぇ、これからが面白いところなんだから寝ないでよ」
「・・・あんたねぇ、自分の彼女を悪魔に犯させようって男がどこに居るのよ」
「だって織姫のためなんだよ? 気持ち良くなかったらつまらないじゃん。それに悪魔じゃないよ、日本語だと淫魔、って言うのかな」
「魔、ってつくじゃないの」
「獣ってつくよりいいでしょ?」
「あ〜〜〜〜〜〜」
 ぐしぐしと頭をかきむしりながら苦悶する織姫。頭の回転は決して悪くないが舌の回転はあまりいい方ではない彼女は、いつも弓太の口車でこうやって丸め込まれてきた歴史を持つ。
「それにほら、記録によるとインキュバスって色男ぞろいみたいだよ」
 部屋の隅に山と積まれた重たそうな本の山をあごでしゃくって、なんとか説き伏せようとする。ちなみに織姫の位置からは薄暗くて良く見えないが、その中の何冊かはエロ漫画だ。
 そんなこととは知らない織姫は(うすうす感づいてはいたのかもしれないが)色男ばかりというフレーズにちょっぴり心を動かされていた。
「んー、見るだけだったら・・・いいかな」
 顔にはハーレムと太字のゴチック体で書いてあるのだが、口には微塵も出さない。
「それでこれが召喚の魔法陣ね」
 弓太は壁にかけてあった大風呂敷を取り外すとそれを床にしいて、魔法陣の六方にロウソクを立てる。やたら手際がいい。前々から機会があったらぜひ試そうと考えていたに違いない。
「呼び出すよぉ〜、マンジュープリンチヨコレイトムシバムシバ・・・・・」
 奇妙なトーンで召喚のスペルを唱えると、魔法陣からもくもくと煙が上がり始め、やがて煙が固まってインキュバスはその姿を具現化させた。割とお手軽だ。
「ボンジュール、マドモアゼル」
 抑揚の激しい野太い声で、やたら白い顔をしたカイゼル髭のナイスミドルが、片手を胸の前に折り曲げてお辞儀をしている姿をあらわした。やった、成功だ!と喜んでいる弓太をよそに、織姫はえらくげっそりとしている。まるで猫に玉ねぎの匂いを嗅がせたときみたいにげっそりした顔だ。
「なにコレ」
「なにって、インキュバスじゃない? 多分」
「色男はどうしたのよ。これじゃ、エロ親父じゃない」
「語感は似てるよね」
 ブチッ、とか、ビシッ、だとか、とにかくそういう雰囲気が音となって走った。織姫の目は、まともにあわせると石にでもなりそうな光を帯び始めている。
「まぁまぁお嬢さん、そんなに興奮しては折角の可愛らしいお顔が台無しですよ?」
 悠然と、笑いかけながら両手を広げて近づきウィンクを飛ばすカイゼル髭。口元、目元にしわが刻まれた甘いマスクは、大人の渋味と子供の甘えといった二律背反を見事に融合させた表情を可能にさせる。同性ならば安心と親近感を抱かせ、異性ならば父性に加えて一目惚れを意識させるに十分な威力を持つ笑顔だった。が、もちろんそれは相手が自分の顔をきちんと見てくれた場合に限る。この場合は織姫が問答無用で腰の入った順歩正拳突きを決めたのでもちろん無効だ。しかしそこは中年男、脂汗を流しながらも何とか耐え切って威厳を保つことに成功した。
「ぬぅ・・・な、なかなかのパンチ・・・あまりこういう手段は使いたくなかったのですが・・・仕方ない、今回はやむを得ませんね・・・」
 言って、口からもやもやと桃色の霧を吐き出し始める。
「ゲロ?」
「違います」
 弓太の突っ込みをあっさりといなす。男相手にはちょっとそっけない。
「なに・・・なんだか体の芯が熱くなってきた・・・?」
「・・・ありがちな手でまことに恐縮ですが、催淫作用のある霧です。これを吸ったらお嬢さんにはひとたまりも無い事でしょう」
「なるほど」
 カイゼル髭の説明に、弓太はうんうんと首を縦に振っている。
「ちょっとぉ・・・なにうなずいてるのよ弓太・・・助けてよぉ」
 織姫は自分の本能が劣情を催し初めていることに気付いて顔を赤らめている。もじもじと体を押えながら、一向に助けに入ろうとしない恋人に業を煮やして文句を言った。がしかし弓太はそしらぬ顔で
「これがホントの桃色吐息ってやつか」
「っこのすかたーん!」
 威勢の良いハリセンの突っ込み音が薄暗い部屋の中に響き渡った。
「これがホントの桃色吐息ってやつか」
「っこのすかたーん!」
 カイゼル髭の吐き出したピンクの霧によって、じゅん・・・、と腰砕けかけていた織姫ではあったが、そんなものしょせん関西系のノリの前には無力でしかなかった。発情モードからどつき漫才モードへと速やかにスイッチを切り替えた織姫は、例によってどこからともなく取り出されたハリセンを手に弓太の頭めがけてそれを実行に移した。
「わ・・・私の淫霧が効かない・・・?」
 わりかしお粗末な名前だったカイゼル髭の秘技『淫霧』は、弓太と織姫のボケツッコミ合体技の前にあえなく敗れ去った。催淫の魔力を込めた霧を相手に吐き掛けるこの技は、単純なだけに強力で、カイゼル髭は最終手段として結構な自信を持っていたのだ。これを使った今までの女性は、たとえどんなに意志が強かろうとも、女であったなら----女騎士、巫女、女王、くの一----どんな訓練を受けて居ようとも、一人残らず腰砕けになって求めてきたものだった。しかしその秘技が、たったいま彼の目の前で(一見)ごく普通の少年少女にさくっと破られたのだ。たけし軍団に敗れ去った阪神タイガースみたいなものである。
「ぬ・・・んぅ・・・、それならば、これを使うまでですっ!」
 動揺を隠しきれずに思わずよろめいてしまったカイゼル髭だったが、割と早く立ち直ると面目を取り返すべくすぐさま次の手管を織姫に繰り出した。いや、掘り出した。
 どかーん。
 カイゼル髭は履いていた紺のスラックスを膝下まで一時にずりおろすと同時に、己の背後で魔力による映像効果を炸裂させる。強烈な爆発(の映像)といくらかの風をまとい、フラッシュと同時にぬらぬらと黒光りするイチモツを反り返らせた。背後では『どかーん』の3D写植が宙に浮かんでいる。
「うそ・・・なにあれ凄い・・・」
 思わずイチモツに見入ってしまう織姫。ビールの500ml缶ほどもありそうなナニが、爆発効果の照り返しを受けてテカりながら存在を主張している。当然、弓太のよりも立派だ。さらにその500ml缶には例によって例のごとく豆粒ほどのビーズ状のイボが螺旋を描いて並んでおり、あまつさえ小さくうねうね動いていた。今にもそれだけがポトリと外れてうねうねと単独行動を始めてもおかしくないほどグロテスクであった。
「ふふ・・・こいつで墜ちたレディは数知れませんよ。なにしろ私の愚息は、ほれこの通り暴れん坊ですからねぇ」
 懐古趣味的ギャグエロ漫画でもなかなか使いこなせそうにないフレーズを、平気な顔でのたまうカイゼル髭。先ほど弓太の頭をはたいて以来忘れ去られていたハリセンが思わずひとりでに動きそうになっていた。
 床にへたり込み、赤らめた顔を両手で押さえているその姿は少女然としたものもあってなかなか可愛らしいのだが、織姫の目は指の隙間からその話題の愚息に釘付けとなっていた。ごくりと生唾を飲み下していたりもする。不感症といえどもそのすごさには何か感ずる物があるのだろうか。しばらくすると、織姫が見つめているその目の前で、なんとビール缶に螺旋を描いて配置されたビーズが、うぃーん、と機械音をさせて回転を始めたではないか。モーター音の緩急にあわせてランダムに回転速度を変えながら、ぐるぐるうねうねとうごめいている。
 がしかし、いくら何でも自分のイチモツがモーター仕掛けではないことぐらい百も承知のカイゼル髭は、なんかおかしいと己の腰元に目をやった。確かに、螺旋状のイボが隣で回転して居るではないか。
「となりで?」
「わははははは、そっくり」
 仁王立ちでふんぞり返りながら股間のアレをふんぞり返らせているカイゼル髭のすぐ横で、弓太がバイブレーターのスイッチを入れて笑っていた。カイゼル髭のナニに色までそっくりなバイブレーターである。しかも肉粒が回転するだけカイゼル髭よりもグレードが上だ。
「なぁっ、なんですかそれはっ!」
「やっぱ5万円もしただけはあるよね。ほら、こっちの方が凄い」
 カチカチとスイッチを入れたり切ったりして遊んでいる弓太。なんだか楽しそうだ。カイゼル髭はといえば、己の愚息と見比べながら口をヘの字に曲げて
(作り物ごときに負けてられませんね・・・)
 などと対抗意識を燃やしていた。
 ついつい気を取られてしまったが、そういえば後一歩で墜ちるところまで行ってた織姫はどうしたのか、ふと我に返ってカイゼル髭は振りかえった。
 ほんの先ほどまでは愚息の方に見入っていた織姫であったが、今は無言で体をぷるぷる震わせながら床にうずくまり、片手で腹を抱えてもう片手で床をどんどん叩いている。爆笑モードに入ってしまって耐えられないのだ。ヒトはだいたい度を超えて可笑しいときにはこーなってしまう。
「ぬぅ・・・意匠登録しておくべきでしたか・・・」
 悔し紛れなのかなんなのか訳の分からぬ負け惜しみを吐いてはみたものの、ちょっとこの状態では負けを認めざるを得ないようだと、カイゼル髭は確信した。
「まさかこの現代の世でこれほどの難物が居るとは・・・しかしここで引き下がってしまっては私のインキュバスとしての権威に関わろうと言うもの・・・」
 ぐぐぐっ、と拳を強く握り込み、ご自慢のお髭をぷるぷるとさせながら、ズボンをおろしっぱなしで独白する。権威はともかく、その愚息とやらは早くしまって欲しい。
「かくなる上は、あなたを我が城へとご招待しましょう。この世では味わえぬ快楽を、我が故郷、我が一族の力を尽くして与えようではありませんか!」
 自分に酔っている、というのはこんな状態のことを言うのだろうか、少々うれしそうに台詞を揚げながら芝居がかった仕草で腕をぶん、とひと振りすると、先ほどカイゼル髭が現れた魔法陣の文字がうねうねと動き回って見たこともないような紋様を描き出した。それと同時に、魔法陣の上に二メートルほどの青く光り輝く楕円がそびえ立つ。転移の門とでも言うのだろう。
「さぁ、どうぞレディ。このゲートをくぐればすぐお着きになられま・・・」
「わ〜い」
 カイゼル髭が台詞を全て言いきるよりも早く、弓太が飛び込んだ。何があろうとこいつに油断してはいけない。
「・・・すよ」
「・・・」
 なんとか最後の台詞を口にしたものの、酸欠の金魚のように口をぱくぱくと動かしているカイゼル髭は、同じく変な顔してあっけにとられている織姫としばし目線をあわせたまま硬直していた。
「えーっとぉ・・・と、とりあえず行ってみましょう?」
 つきあいの長さの分だけ織姫の方が立ち直りは早かった。てくてく歩いて青く光る楕円の中に姿を消すと、カイゼル髭が締まりようのない口をぱくぱくさせながらそれに続いて消えていった。
 後にはただ、物言わぬハリセンが残るのみであった。
 青白く光る空間は、十歩も歩いたところで入ってきたときと同じように突然とぎれた。
 上も下も分からないトンネルから放り出されたその先は、西洋の中世風の地下牢、そんな言葉が似合うじめじめした石造りの一室だった。唯一の出口とおぼしき階段が見える通路に、鉄格子がはまっていなかったことは幸いといえば幸いだが、カビの生えた壁に備えられた手かせ、足かせ、そして部屋の真ん中に悠然とそびえ立つ三角木馬は、どれだけひいき目に見たところでとても接客用の応接セットには見えない。
「ねぇ。インキュバスってぇのは、招待した客をまずこーゆーところに通すわけなの?」
 気の弱い淫魔ならば軽く失神させるほどの過激な視線をカイゼル髭にぶつける織姫。カイゼル髭はまだ口をぱくぱくやっている。あのトンネルの間もずーっとそうしていたのだろうか。
「ちょっと、なんとか言ったらどうなのよ!」
 自分の問に回答が得られなかった織姫が噛みついた。カイゼル髭は、止まらなくなってしまったのか口をぱくぱくとさせながら答えた。
「あの・・・弓太様はいずこ?」
 見れば部屋の中にはカイゼル髭と織姫二人きりであった。邪魔しちゃ悪いと弓太が気を利かせて部屋を出ていったわけでは当然ない。何があろうと一カ所に落ち着いていることのできない弓太のことだ、ここに現れるなり後の二人を待たずに唯一の通用口である階段から駆け出したのだろうと織姫は考えた。
「・・・あのバカ」
「それと・・・ここ、何処です?」
 顔と腰に手を当てて、深いため息をつこうとした織姫が脱力して床に突っ伏す。
「な・・・なんだって?」
「ですから・・・私の城の中にこのような場所は無いのですよ」
 何が起こったかいまだに把握し切れていないカイゼル髭は、飽きもせずに口ぱくを続けていた。その横で床に突っ伏したままの織姫は、ある確信を込めて腹の底から絞り出すようにつぶやいた。
「・・・あのバカ」

「ああっ、それをいじったら僕がカイゼル様にしかられちゃうってば!」
 見事な美貌と均整のとれた肉体を持った一人の青年が、半裸であたふたと駆け回っていた。
「やっ、それダメっ。その杖はカイゼル様お気に入りの品なのよっ!」
 艶のあるロングヘアをなびかせて、肌も露わな下着姿の少女がこれまたあたふたと駆け回っていた。訳は知らないが、あの中年インキュバスは本拠でもやっぱりカイゼル髭と呼ばれているらしい。
「おー、これは面白い。17世紀の名高い魔女ナム・アミ・ダヴーツのサイン入りほうきじゃないかぁ」
 その間を、締まりのない顔をほころばせて、ほうき片手に弓太が逃げ回っていた。薄暗くだだっ広い部屋の中は既におもちゃ箱をひっくり返してさらに独身男性を3ヶ月間住まわせたような有様となっている。原因は言うまでもなく弓太だ。こいつがゲートから飛び出してくるやいなや、広い部屋を飾る数々のアイテムに黒魔術オタクの血が騒ぎだしたのか、そこらのものを手当たり次第に物色し始めたのだ。ご主人様の帰りを待ってゲートの周りに陣取っていた二名のインキュバスとサッキュバスは、このはしゃぎ回る闖入者に完全に振り回される格好となった。
「だめーっ、それもだめだってーっ!!」
 唯一体を隠している腰布をも放り出さんばかりの勢いで、青年インキュバスが弓太を追い回す。一方の弓太はそんな追跡など物ともせずにだだっ広い部屋の中を、一冊の本を広げながっら鼻歌混じりに駆け回っていた。
「ほほぅ、これはひょっとしてネクロノミコンとやら? でも読めないや。ぽいっ」
「きゃあああっ! そんなことしたら本が怒りだしちゃう!」
 望んでもなかなか得られる物ではない貴重な魔道書をいとも簡単に放り出す。この淫魔の住まう世界を司る法則は弓太たちの世界とは違い、綴られた文字もまた一つの存在であり、粗末に扱えばその力を行使することもありうる。少女サッキュバスは落下する本をすんでの所で滑り込みキャッチした。
「はぁ・・・なんとか間に合ったわ・・・ぐす・・・」
 もしあのまま落下させていたときのことを想像し、気の弱い少女サッキュバスは涙ぐんでしまっていた。がしかし、本が暴れ出すことがあるなどと知る由もない当の弓太はお構いなしに次から次へと危険な物品に手を伸ばしている。今度は妖しげな薬瓶を持ち出してしげしげと見つめながら、追いすがる青年インキュバスから逃げ回っていた。
 いいかげん追いかけ疲れ、床にへたりこんでしまった少女サッキュバスが、とあることに気づいて悲鳴を上げた。
「いやーっ、ま・・・魔法陣のマッピングがメチャメチャになってるーっ!!」
 元々青白い顔面をさらに蒼白にして、サッキュバスの少女がへなへなと崩れ落ちた。
「た・・・大変だ! カイゼル様が帰って来れなくなっちゃうよ・・・」
 それまで弓太を追いかけていた青年インキュバスも、ことの重大さに気づいて立ち止まった。複雑な法則にのっとって厳密に描かれた移転のゲートを紡ぐ魔法陣は、部屋の中を駆け回る三名の手(足)によって散々に乱れてしまっていたのだ。
「なーに、大丈夫大丈夫」
 ことの重大さを全く理解してない弓太が、崩れた魔法陣の前で呆然と立ちすくむインキュバスの横から魔法陣を構成するブロックや像に手を出した。
「ここをほら、ちょいちょいとやれば・・・」
 その城は音もなく消滅した。

「あの・・・織姫様? 私、さっきからもんのすんごく嫌な予感がしまくるのですが」
「・・・奇遇ね。あたしもよ」
 カイゼル髭と織姫は、ぽつねんと二人っきりで荒野に立ちすくんでいた。正確に言えば荒野ではなく、深い森の中で不自然に草すらも生えていない広場といったところだろうか。先ほど謎の地下室に出現した二人は、まだ残っていたゲートをもう一度くぐってみようと試みたのだが、その結果がこれだった。
「心なしか・・・私の城があった土地のようにも見えるのですけどね・・・」
「往生際悪いわよ。断言したらどう?」
「弓太様・・・でしょうか」
「間違いないわね」
 言うが早いか、二人は音もなく今度は違う地下室に移転した。いや、今度は地下室の方が移転してきたと言った方が正解だと思えた。今度の地下室は、先ほどの狭苦しい雰囲気の地下室とは違ってやたらと広く、荘厳な雰囲気をかもし出す品物が多数散らばっており、そしてそれらは全てびしょ濡れだった。部屋の中には、3人の人物が居た。
「あーっ、か、カイゼル様っ」
 愕然とした表情で、その中の一人、青年のインキュバスがまるで恋人に浮気がばれたような悲鳴を上げた。そしてなぜかびしょ濡れだった。
「ひぃ・・・・」
 元々青白い顔面をさらに蒼白にした顔面からさらに血の気を引かせた少女のサッキュバスがとうとう貧血を起こして倒れた。そしてなぜかびしょ濡れだった。
「いやー、驚いたよ。魔法陣いじってて突然水中にワープしたときはいったいどーなるかとおもっちゃった。やあ織姫久しぶぐげッ」
 同じくびしょ濡れ姿の弓太が間髪入れずに喋り出し、その終わりを待たずに問答無用で蹴り倒した織姫が呆れるように言った。
「・・・このバカっ!」
 織姫が弓太を蹴倒す様を見て、二人の若い淫魔は彼女を味方であると判断した。つまり弓太は敵であったわけで、敵の敵は味方だという理屈だ。
「あの・・・」
 少女のサッキュバスがおずおずと進み出た。この業界では、目上の異性に声を掛けることは失礼であるとされている。パッと見で女性に見えた織姫に対して、青年インキュバスよりも自分の方が適役であるとの判断だった。
「あ・・・ありがとうございます。失礼ですがどちらの魔族様でいらっしゃいますか?」
 城持ち淫魔であるカイゼルの側付きを勤めるだけあって、この二人も決して低位の魔族と言うことではない。この際なので詳しい言及は避けることにするが、カイゼル髭の立場を人間社会で分かりやすく言ってしまえば中堅企業の社長ぐらいの地位だ。自分の主人でもあるカイゼル髭とほぼ対等の立場で現れたこの織姫を、彼女は目上の者であると判断したのだった。
「失礼ね。誰が魔族よ」
 憮然とした表情でにらみつけ、織姫はいつもの調子であっけなくも言い捨てた。
「え・・・では、まさか神族の方でいらっしゃいますか? それにしては肉体をまとって・・・そもそもカイゼル様とご一緒になってる説明も付きませんし・・・あの、えと・・・」
 不機嫌そうな織姫の表情を見て、まさか失礼なことを言ってしまったのではないかとあたふたと支離滅裂な言葉を発しながら、この少女淫魔はまたもや顔を青ざめさせている。生まれつきか性格ゆえか、どうにもあまり健康的ではない質のようだ。
「あたしは人間よ。にんげん」
「え・・・」
 ちなみにこの淫魔達の見識を簡単に言うとこうだ。心身共に貧弱な人間なんて種族は、食い物以外の何物でもない。とてもじゃないがタメ口などきかれたくない相手だ。そう考えている。とはいえ、恋心や欲情心を存在の源とする彼らにとって、大きなエネルギーを発散して生きる人間は、確かに悪く言えば食い物なのだが、基本的には上客でもある。
「それでその人間のお嬢さんが、いったいどうしてこんなところに来たのですか?」
 織姫が人間の女であるということが分かって、我が意を得たりとばかりに半裸の青年淫魔が少女淫魔を押しのけて前に出てきた。ひょろりとした優男風のこの淫魔は、ご自慢の甘いマスクで織姫にささやきかける。
「ひょっとしてこの僕に会うためにわざわざ? いやいやもちろんあなたのような美しいお嬢さんはいつでも大歓迎ですよ」
 とりあえず織姫を口説いておこうとでも考えたものか、優雅な仕草で半裸の体を織姫の足下に王女と騎士さながらにひざまづいてホストクラブばりの台詞を吐く。青年淫魔は確かに絶世のとつくほどの色男で、人間界に現れたならばそこらのアイドルごとき色あせてしまうような容貌を備えており、うぶな娘であれば一目見ただけで熱に浮かされてしまうだろう。極上の笑顔を浮かべて、ひらりと織姫の手を取って口づけようとした。
 このインキュバスの失敗は、カイゼル髭がなぜそんな人間に付き添うようにして現れたのかよく考えなかったことと、手の甲にキスしようと織姫の手首を掴んで眼前に近づけたその体勢が、織姫にとってはまさしくワンインチパンチの予備動作に等しかったことであった。流れるようになめらかに、一瞬のうちに織姫の肩、肘、手首の筋肉で力が蓄えられ、その流れが握られた拳の先で炸裂した。
「ぐふっ」
 織姫の手首がごくわずかに動いただけで、青年インキュバスはもんどり打って後頭部を床に激しくたたきつけた。白目をむいて鼻と耳から緑色の血を垂れ流している。傍目にはインキュバスが発作でも起こして勝手に悶絶したように見えていただろう。
「あ・・・あ・・・ゼ、ゼンファ・・・」
 青ざめさせた顔をさらに青ざめさせて、少女サッキュバスはまたもや貧血を起こして倒れた。
「ふぅ・・・まったく、エルンケルもゼンファエンも、これさえなければそれなりに有能な部下なのですがねぇ・・・」
 まるで前回の織姫のように顔と腰に手を当てて、頭をふりふりカイゼル髭は深いため息をついた。察するに少女淫魔の名前がエルンケル、青年淫魔の名前がゼンファエンなのであろう。
「何、このガラス玉。割ってみようっと」
 ばしゃん。
 いつの間にやら復活した弓太が、いったいどこから手に入れたのか両手に抱えたスイカほどのガラス玉を床にたたきつけた音と、弓太の発した言葉にあわてふためいて足を滑らせたカイゼル髭が水浸しの床に突っ伏した音が重なった。
「そ、それは奇腕獣のタネ・・・」
「・・・なによそれ」
 例によって瞬時に弓太を蹴り倒し終えた織姫が、床に突っ伏したままもごもご喋っているカイゼル髭に問いかける。
「珍しい植物の種です。このあいだ部下の一人が見つけてきたものを封じておいたものなのですが・・・」
 床に落ちたこぶし大ほどの種子は、無言で一筋の煙を発し始めていた。
「で、それがなんだってのよ」
「一種の寄生植物・・・生き物を襲うのですよ。もっとも、何もしなければ発芽することすらないわけなのですが」
 織姫はなんとなく嫌な予感がしていた。何もしなければ発芽しない、では何かをすればこのタネは発芽するのだ。種子の発する一筋の煙が二筋に増えたところで予感は確信に変わった。
「聞きたかないけど、何すれば発芽するっての?」
 二筋の煙が四筋に増えた。
「まだ分かりませんか?」
 四筋の煙が8つに増える。
「とっくに分かってるわよっ」
 8つが16、16が32、ここまで来るともはや一本一本を見分けることは不可能だ。織姫が叫びざまにもうもうと立ちこめる煙から飛び退くタイミングで、無数の根がシュルシュルと音を立てて勢い良く伸び始めた。タネに何をすれば発芽するのか、水をやればよい。ごく簡単な話だ。ワープしまくった末に水中に転移していた水浸しのこの部屋ならば、つまりは床に叩きつけるだけで準備完了なのである。
「あ〜あ、こんなことになるのではないかと思っていましたよ。私は」
 何度も何度も繰り返して深いため息をついて、すたすたと素知らぬ顔で扉の方へと避難を始めるカイゼル髭。織姫がその襟首をむんずと掴んだ。
「避難してないで、とっととアレを何とかしなさいよ。アレを」
 青筋たててすごんでいる織姫をよそに、種子はいまだ根の成長を続けさせていた。延々と伸び続ける根のそれぞれは、標的を気絶している少女サッキュバス、エルンケルに定めたようだった。それまで全方向へ放射状に伸び続けていた細い根は、明らかな指向性をもって胸と腰だけを隠した青白い肉体へと向かい始めた。途中、鼻血を出してのびているインキュバス、ゼンファエンの上は素通りしてしまう。誰も何の期待もしていないだけに、植物といえどもやっぱり野郎はどうでもいいらしい。
「ひぃ・・・な、なんですか・・・これは・・・」
 根の一つが足首に絡みついたところで目を覚ましたエルンケルであったが、その根をほどこうと出した右手にまた別の根が絡みつき、そのまた出した左手にも別の根が絡み、いっそ噛み切ろうと手元に突き出した頭にもまた根が絡み、ついにはとうとう全身をからめ取られてしまった。
「うーん、これがホントの・・・」
 何かを言おうとした弓太を電光石火で蹴り倒した織姫は、カイゼル髭に向かって、成長を続ける植物と、床でひくひく痙攣している弓太とを、順に指さした後でにっこり笑ってこういった。
「どっちがいい?」
 選択の余地は無いけどね。そんな笑顔だった。
 夜の貴公子、女性の味方、痒いところに手が届くジェントルマンこと私カイゼル髭は、ついつい人間の召喚なんぞに応じるという気まぐれを起こしてしまったばっかりに、弓太とかいう人間の男と織姫とかいう無敵の女を、荘厳かつ華麗で洗練された上品さを漂わせる我が城に御招待するハメになってしまいました。それだけならまだ良かったのですが、この弓太、片っ端から私の予想外の行動のみを延々と続ける実に困った行動原理の持ち主。もう一方の女性の方は、これがまた神を滅ぼし魔を滅するとでも云わんばかりの女豪傑。私も淫魔の端くれなれば、ただの剛腕なら手の施しようもあるのですが、筋金入りの不感症と来た日にはあなた、鬼に金棒、狂戦士に刃物、女の***に***が***……
 髭のアタマにカカトが落ちた。
「いつまでも馬鹿なこと云ってないで、さっさとあれをなんとかしなさいって言ってるでしょう?」
「い、痛い……」
 これまでの出来事を省みながら、目の前の面倒からの現実逃避に余念がなかったカイゼル髭を織姫が蹴飛ばしているその間にも、少女サッキュバスことエルンケルの四肢に自由を奪って絡みついている触手植物は、ちゃっかり乳をなで回し尻にツルを這わし今まさに股間へ進行を開始しようかと言うところまで来ていた。植物には違いないのだが、動きが、凄く下品でいやらしい。ファミレスでウェイトレスの尻を触ろうとする酔っぱらいオヤジの手つきにも似ていた。
「か、カイゼル様ぁ……助けて……下…さい」
 必死で手足をばたつかせて、目尻に涙を浮かべながらカイゼル髭に助けを求めるエルンケル。実際の年齢がどんなであるかはともかくとして、見た目は少女であるエルンケルの未発達で青白い肉体の上を、肉厚の葉が先に付いているツルがザワザワと蠢く。そのたびに悲鳴を上げるエルンケルの幼い顔がほんのり赤く染まっているのは、逃れようとして全身の筋肉を運動させたためという訳でもなさそうだった。舌のようにざらついて粘液をしたたらせる赤黄色い不健康そうな触手が、少女の首筋を伝って、細く尖ったあごを下から舐り上げる。たまらずエルンケルは悲鳴を上げた。
「いやーっ……お酒臭いぃ〜!!」
 酔っぱらいのような動きは伊達ではなかった。そしてサッキュバスの顔が赤く色づいたのも伊達ではなかったようだ。全身からアルコールを分泌するというこの植物の習性は、捕獲した動物を酔わせて抵抗力を奪うという意味では合理的な能力であった。酔いどれオヤジと似た動きを持ってしまったのはあくまで偶然なのである。多分。
「さぁて、どうしたものでしょうね。酒臭いだけあってこいつは火に弱いのですが……エルンケル、あなたごと燃やしてしまってもよいですか?」
「……嫌です」
「それは困りました。完全に手詰まりです」
 あっという間に万策尽き果てるカイゼル髭を見るエルンケルの目から涙が流れた。そんなぁ、という表情である。その間も少女の体をまさぐり続けるオヤジの触手は、ついに表面だけでは飽きたらずに割れ目の奥へと開始した。
「ひぁっ!! や…やめて……」
「織姫、ここは一つ僕に任せてちょうだい」
「あんたね……自分が原因だって忘れてんじゃないの?」
 まぁまぁ、と弓太は突っかかってくる織姫をなだめる仕草をしながら、ぴしっ、と触手に絡まれる少女を指さした。
「僕の見たところ、あの女の子に絡まってる以外の余分な触手は無いみたい。だからさ、直接救出に行けば助けられるんじゃないかな」
 言われて織姫とカイゼル髭は酔いどれオヤジ植物の方を見直した。確かに、触手モノとしては必要不可欠なはずの、”女をなぶる以外にあたりでただ単にうねうねしている”役目の触手が無い。ならば話は簡単である。誰かが行って手で触手を引きちぎれば済む訳だ。
「誰かがって、誰が?」
「→」
「←」
 振り返った織姫の前で、弓太とカイゼル髭が互いに指さしあっていた。自分では絶対に行きたくないらしい。それは当然だった。織姫だって行きたかろうはずがない。なぜなら酔いどれオヤジは全世界共通の嫌われものなのだから。
「さっき『任せてちょうだい』とか言ってたのは誰よ……」
「だってほら、僕は頭脳労働担当だもん」
 それでもギャラは半々だ。いやそういうことではない。弓太の頭脳労働がどれだけ役に立つかなんて、今までの行動を見ていればそれで察しが付く。
「いやぁ…ん……あっ……だ…ダメ……そんな……つまんじゃダメです……はぁぁっ…」
 三人がコントを繰り広げている間にも、酔いどれ植物は確実に少女の肉体を蝕んでいた。何をつままれているのかはともかく、少女の喘ぎからは限界がそう遠くないと察することが出来た。このままではオヤジの種子を埋め込まれ、それを肉体が受け入れる準備が整ってしまうのにそう時間はかからないだろう。
「頼りにならない奴らね! いいわよっ、あたしがやってやろうじゃないの!」
 しびれを切らし、織姫が勇ましくも飛び出した。少女の体に絡まる触手の数本を束にして鷲掴みにすると、両手で勢いよく引っ張った。プチプチと小気味よい音がして少女の体が解き放たれる。
「やった……?」
「やった〜っ」
 後ろの方で、歓声とともにぺちぺちぺちと手を叩く音がした。それに気をよくしたわけではないが、続けてまた数本の触手を引き剥がすと、エルンケルは完全に自由の身となった。酔っぱらったせいか感じてしまったせいか、腰に力が入らずにふらふらしながらオヤジ植物から逃げ去る。さて獲物を逃がされてしまった酔いどれオヤジはというと、当然というか手元にいる新たな獲物に絡みはじめた。おぅいねぇちゃんなにすんだぁという声が聞こえてきそうなほどであった。
「え…ちょ、ちょっとなにすんのよっ!!」
 それまでの酔いどれオヤジチックなとろい動きとは裏腹に、怒りに燃えたオヤジの動きは素早かった。シュルシュルと怒濤の勢いで全ての触手を織姫に向けて伸ばしはじめたかと思うと、抵抗するいとまも与えずあっという間に織姫の体をからめ取ってしまった。
「もうっ、んっ、このぉっ!!」
 右に左に手足を動かして、絡みついた触手やツルを力任せに引きちぎろうとするが上手くいかない。そのたびにするりするりと伸びゆくツルは、ますます絡んで自由を奪った。一方、織姫によって助け出されたサッキュバスのエルンケルは、こしくだけになりつつも何とか触手の圏外へと逃げ去ることに成功していた。
「はぁ…はぁ…」
「危ないところだったねぇ」
「危なくしたのは当の弓太様ですけどね」
「危なくなったところを助ける案を出したのは僕だよ」
「危ないところを助けて危なくなってるのは織姫様じゃないですか」
 弓太は手のひらを拳のわきで叩いてぽんと景気の良い音をさせた。
「そーいえば忘れてた。織姫、大丈夫?」
 織姫の顔が朱に染まって全身をぷるぷる震わせている理由が、思い出してもらえて嬉しかったからというわけではないことだけは確かだった。
 弓太が封印を解いてしまったオヤジ触手植物は、折角捕らえた少女インキュバスを奪われてしまった腹いせに、今は織姫へ絡みついていた。ツル全体からアルコールを分泌しつつ、生臭い匂いをぷんぷんさせて触りまくれば、そりゃ若い女の子には嫌われる。
「ちょっとっ、どこ触ってんのよこのぉっ!!」
 だけどどんなに嫌われてもくじけないのが良いところ。オヤジ植物はあいも変わらずいやらしい動きで尻をなでまわしていた。例の不健康そうな舌状の触手が、ぺろん、なんて織姫の頬を舐めていたりもする。
「いやーっ、もう、気持ち悪いーっ、このオヤジぃっ!!」
 だだをこねるように手足をバタつかせて、力の限り織姫が叫んだ。かといって全身に絡みついたツルがちぎれる様子もない。せいぜい乳と尻をなで回す手の動きが一時止まるぐらいである。
「うう…お酒臭い……」
 激しく動いたせいか、ぜぇぜぇと息を切らせて、喘ぐように言う。アルコールに弱いらしい織姫は、運動したこともあって既に顔を真っ赤にしていた。
 織姫が大人しくなったのをみるや、再びオヤジは攻勢に転じる。片方の手で胸をモミモミ、もう片方の手で尻をナデナデ、四肢に絡めた触手を伸ばし、触りやすい格好に体を固定する。
「んっ…やぁ……や、やめなさいって言ってんでしょ……」
 頬を赤く染めて、苦しそうに力無く言った。感じているのか、それともただ単に酔っぱらっているのかどうかはいまいち分からない。
 いまいち分からないのはオヤジ植物の方も一緒らしく、この反応をどう受け取って良いのやら困惑している様子だ。仕方ないので、それまでは服の上からモミモミしていた片手(といっても葉っぱなのだが)を脇の下からするりと入れて、とりあえずブラジャーの間に差し込んで直にモミモミしてみる。
「いやぁっ! い…いい加減にしないと……痛っ!」
 台詞を最後まで言うことは出来なかった。直接モミ始めた手の指が、織姫の乳首をきつく摘んだのだ。堅いし、一応感じてるのかなぁ? なんて言い出しそうだ。
「イイ感じになってきてますねぇ」
「そうだねぇ、そう言えば飲酒プレイってしたことなかった。織姫ってばひょっとしてそう言う趣味?」
「……刺すわよ」
 顔を赤くして、はぁはぁと息を切らせながらも、十分に迫力のあるドスの利いた声が低く響いた。カイゼル髭なんぞは思わず気をつけの姿勢になってしまっている。オヤジ植物もビクッとして怯えていた。
「冗談だよ冗談。やだなぁ、僕たちまだ二人とも未成年じゃない」
 弓太だけは素知らぬ顔で、織姫のガンを笑い飛ばしている。やはりこいつには実力行使以外の対処法は無いのかも知れないと、わなわなと両腕にチカラコブを作りながら改めて確信する織姫であった。とはいったものの、いい加減酔いが回って来てしまって、ツルをふりほどこうにも十分な力が出ない。
「弓太っ……早く助けなさいよぉ……」
 命令口調だが、言葉にいつもの勢いがなかった。だいぶ参ってきている証拠だ。その間にもオヤジ植物の片手はシュルシュルと肌の上を這い回り、ついにはパンティの中へと進入してきていた。
「あ…んっ…」
 織姫は局部を突然触られたくすぐったさに腰をよじらせた。ついつい声が漏れてしまい、その悔しさに顔をゆがめる。
「こういうのも割と新鮮でイイかも知れない」
 まぬけた声で弓太が感想を述べた。
「ですが、そんなこと言っていてよろしいのですか? そろそろ助けて差し上げないと、後が怖いと思いますよ」
 しれっとした顔で、カイゼル髭。
「でもほら、織姫の不感症ってこれで治らないかなぁ」
「おお、確かワタクシが呼び出されたのも当初はそのような目的でしたっけ。すっかり忘れておりました」
「僕も今の今まで忘れてたんだけどね」
 そんなのあたしだって今思い出したぐらいよ。とでも言いたそうな目つきで、和気あいあいと会話を続ける二人を織姫が睨み付ける。だが如何せん酩酊状態に陥っている織姫の視線は、定まらずにぐるぐると宙を舞ってしまっており、はたから見てると余計に怖い。
「このまましばらく放って置いたら、そのうち流石の織姫も感じてきたりとか、ないかなぁ?」
「ワタクシたちの業界では、このような状況を無理矢理の無理と怪物の怪とをとって『無理怪』シチュエーションと呼んでいる訳なのですが……」
 弓太の問に答える形で、カイゼル髭が唐突にギョーカイ話を語り始めた。
「諸説ふんぷん有りますけれども、ワタクシの淫魔歴1200年の経験から申し上げますと、そう言う趣味がない限り、女性が無理怪シチュエーションで感じられることはまず無いと言っても過言ではないと思われます。ほら、現に織姫さまもああして気持ち悪がっていらっしゃる」
「でも、見てる分には楽しいよね」
「ええまぁ実を申しますとワタクシもこういうのは嫌いではありませんが」
 普段であれば、織姫を前にしてこれだけ言おうものなら蹴りの一二発は飛んできて当たり前なのだが、あいにくと今は酒と触手とで二重に戒められている。
 触手に絡まれて宙づりになりながら、織姫はただ下を向いてひゅーひゅーと息の漏れる音を立てているだけだった。うつむいているので表情は見えない。
「あの、弓太様? 織姫さまは…大丈夫なのでしょうか?」
「お酒飲ませたこと無かったからよく知らないけど……なんかぐったりしてるね」
 織姫が大人しくしているという不気味さに、流石の二人も気になったようだ。一方、オヤジ植物はといえば、マグロ状態になった織姫の反応を呼び覚まそうと必死になってモミモミナデナデを繰り返していた。
「若い子に無視されて意地になっちゃってるオジサンみたい」
「……そっとしておいて差し上げましょう。きっと彼にも色々あるのですよ」
 弓太が笑い、それをカイゼル髭が諭すようにしみじみと言った。オジサンならずとも涙を誘うワンシーンである。
「う…う…」
 ”まるでオヤジ植物の愛撫に反応したのかと思われるようなタイミング”で、織姫が喉の奥から絞り出すような声を上げた。
「そう言えば」
 思いついたように弓太。
「あの業界にも閑職だとかリストラだとかって有るの?」
 弓太があっけらかんと言った。
 オヤジ触手はおもいっきりひるんだ。
 なんの前ぶれもなく織姫が吐いた。
「う゛ぇぇぇぇ、き゛ほ゜ち゛わ゛る゛い゛ぃ!!!!」
 そして収拾がつかなくなった。
 肩から下を覆った毛布が、目に見えて大きく上下しはじめた。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
 苦しそうに呼吸を荒げ、額にはうっすらと汗がにじんでいる。
「う…ん……」
 一体どんな悪夢を見ているのか、顔をしかめ、奥歯を噛みしめて、それでも足りないのか毛布の端をつかみ何度も何度も寝返りをうった。
「織姫。ねぇ、織姫ってば」
 目の前で酷く苦しそうにしている様を見て、心配になったのだろう、うなされる織姫の肩に手をかけ、揺さぶる男が居た。弓太だ。
 続けて、織姫の耳元に口を寄せてささやく。
「起きないと熱いチウをしちゃうぞ〜」
 少なくとも悪夢に苦しむ恋人に対する台詞としては不合格だった。
「う〜ん、う〜ん」
 うなされ方が酷くなっていた。
 こんなとき、大抵の悪夢には弓太が絡んでいることを本人は知らない。
「目覚めませんと情熱的な口づけを差し上げてしまいますよ?」
 真顔になって言い換えてみたが無駄だった。
 仕方なく弓太は最後の手段に出ることを決意した。どこか嬉しそうな顔をしている。
 弓太が引き出しの中をガサゴソあさって最後の手段に必要なものを探している間にも、織姫の苦しみ方は増す一方だった。
「まっててね、今、最高の目覚めをプレゼントして上げるから」
 弓太が目当てのブツを発見して薄笑いを浮かべたその瞬間。
「……うわあっ!」
 悪夢が頂点に達したのか、織姫は短い悲鳴とともに毛布をはねのけた。
 ぜぇぜぇと息を切らせながら、激しい鼓動を繰り返す胸に手を当てて辺りを見回した。そこが自分の部屋であるということに安堵し、すぐ側に見慣れた間抜け面を確認してほっと胸をなで下ろす。
「やあ、おはよう織姫。だいぶうなされてたよ? 起こそうとしたけどなかなか目をさまさないんだもん」
 その見慣れた間抜け面は、残念無念といった顔つきでそそくさと片手に持ったマッキー極細を後ろ手に隠した。
「そう…ありがと、なんだか変な夢見てたの」
「どんな夢?」
「どっかの西洋風の作りのお城でね。あたしと弓太がいて、あとよく分からない悪魔みたいなのがいて、あたしは気味の悪い化け物に捕まっちゃって……」
「へぇ〜、それでどうなったの? はい、ココアだよ」
 うんうんと頷きながら織姫の話を聞いていた弓太は、その間にホットプレートの上に置いてあったポットからココアをマグカップに移して織姫に差し出した。
「わぁ、気が利くじゃない弓太。いただくわ」
 パウダーをバターで練ってから溶いた本格的なココアだった。こういう細かいところに凝るタイプの弓太は、もちろん味の方も織姫の好みに合わせて思い切りビターにしていた。
「いい香り……それでね、助けてって言ってるのに弓太は全然助けてくれないし、なんだか気持ち悪くなって来ちゃって、最後には自分で暴れ出してそのお城を壊しちゃうのよ」
 ふぅん、とだけ相づちを打って、弓太は自分のカップにココアを注いだ。
「それにしてもおかしな夢だったな……なんかね、鼻の下に髭を生やした変な中年のオヤジが居てね、それが妙に甲斐甲斐しい喋り方するもんだから…」
 何度か蹴っ飛ばしちゃった。とは言わずに、カップの中のココアを口に含んだ。程良い暖かさのため、猫舌の織姫でも大丈夫だった。
 こういう気配りが嬉しいのよね。なんて考え、織姫はカップに口を付けながら上目遣いで弓太の顔を見た。
「それって、あんな顔じゃなかった?」
 弓太が、にやにやしながら、織姫の背後を指さした。
「?」
 つられて顔を向けた織姫の口から、焦げ茶色の液体が、オフシーズンの屋外プールを防火槽代わりにした放水車みたいに噴き出した。放水目標、髭。

「夢で片づけられてしまうと少々もの悲しい物がありますな」
 胸ポケットから出したハンカチで顔を拭って、鼻の下に生やした髭の形を整えながら変な中年オヤジは言った。
「結局、あれからだれも暴れ出した織姫様をなだめることが出来ませんでした」
「織姫が酒乱だなんて、今回初めて知ったよ」
 必死になって記憶の糸をたぐってみる。オヤジ触手植物にからめ取られ、お酒の匂いをかいだところでいきなり糸は途切れていた。しかし、確かに夢のなかでは暴れたという記憶があった。
「……本当?」
 自分の記憶の不確かさに不安が募る。
「もう、凄かったんだから」
「酔っぱらわれた織姫様は、石造りの壁を正拳突きで破壊され、物見塔を蹴り倒し……」
「巨大な岩石を担ぎ上げて投げつけて」
「堀の水を一息で飲み干したと思ったら」
「目からレーザーを出して辺り一面焼き払い」
「口から放射能火炎を吐いて」
「東京タワーをひとひねり」
「あたしゃメカゴジラかっ!」
「おおあたり〜」
「やめんかっ!」
 扇子で紙吹雪をまき散らしている弓太を怒鳴りつける。
「まったく、失礼ね。いくら何でもそんなことするわけ無いじゃないの」
「そうだね。いくらなんでも堀の水を一息で飲み干したりなんてできるわけないもんね」
「ですが、ワタクシの城が壊滅したことは紛れもない事実……」
「……ちょっとまって」
 織姫は、ふと、不安になった。片手を額に当て、もう片手をひらひらさせてカイゼル髭を止める。
「どこまでホント?」
「↑」
「↑」
 弓太とカイゼル髭はそろって14個上の台詞の部分を指さした。今までは夢の中のことだと思っていたが、その行為には確かに覚えがある。
「……夢だったら良かったのに」
 がっくりとうなだれて、織姫がぼやく。だが、すぐにとある一つのことに気づいて顔を上げた。
「って、あんたひょっとしてウチに居座るつもりじゃないでしょうね」
「弓太様はココアを入れるのが上手ですな。この苦味と甘みのバランスにはセンスを感じます」
 カイゼル髭は床の上に正座した状態で、両手で持ったカップからココアをすすった。誉められた弓太は弓太で、えへへ〜、なんて言いながら嬉しそうにしている。完全に無視された織姫であった。
「家族だって一緒に住んでるんだし、こんなの置いとくスペースなんてないのよっ!」
 怒鳴った。
「でもさ、おじさんもおぱさんも今は二人して海外に行ってるんじゃないの?」
「だ…だからって……姉さんだっているのよ」
 弓太の言うとおりだった。織姫の両親は4年前からイギリスの大学に客員教授として留学しており、しばらく帰国の予定はない。つまりこの一戸建ては現在織姫とその姉との二人しか住んでいないということになる。
「ワッフルが焼けたわよぉ」
 その姉が、甘〜い匂いを漂わせながら部屋に入ってきた。エプロン姿で、片手のトレイに山ほどのワッフルを載せてニコニコしている。
「ね…姉さん……」
 織姫が目をまん丸くしたのは、突然の姉の乱入にではない。姉の後ろに続いてエルンケルとゼンファエンの淫魔二人組が同じくエプロン姿で現れたからであった。
「カイゼル様っ、私もお菓子作るのお手伝いしたんですよ」
 サッキュバスのエルンケルが、青白い顔を上気させてニコニコ笑っている。
「人間の生気も美味しいけど、こういうのもたまにはいいよね」
 インキュバスのゼンファエンが、その後ろに続いて姿を見せる。
「ってなわけ」
 弓太が織姫に向かって笑って見せた。
「……へ?」
 頭上からタライが落ちてきたみたいな顔になった。
「寝てる間に、乙姫姉さんには了解とってあるんだ。実は」
 乙姫とは、たった今部屋に入ってきたばかりの、織姫の姉の名前である。
「織姫、聞いたわよ? ダメでしょぉ、カイゼル髭さんのおうち、素手で壊しちゃ」
 妹とは正反対のほんわかした雰囲気で、乙姫姉さんは織姫をたしなめた。七歳年上の乙姫は、いまだに織姫を子供扱いしているのだ。
「身内の不始末ですものねぇ。しばらくの間、カイゼル髭さんたちは我が家に居候していただくことにしたのよぉ」
「し、したのよって姉さん……」
 年頃の娘の二人暮らしに男を住まわせるのは世間体的にどうかとか、そもそもこいつら淫魔じゃねぇかとか、ともかくそういうことを心の底から叫びたかった。事実叫ぼうとしかけた。だが、乙姫の次の台詞が織姫の行動を停止させた。
「そうだわ、いっそのこと弓太ちゃんもウチに来ちゃったらどうかしら? にぎやかなほうがゴハンも美味しいわよ。きっとぉ」
 にぎやかになるのは確かだが、淫魔三匹プラス弓太がどのぐらいにぎやかになるのか織姫には想像もつかなかった。乙姫は既にニコニコしながら部屋割りを決めていたりする。そこそこ大きい作りのこの家には、使ってない部屋が幾つかあった。
「織姫と弓太ちゃんは一緒の部屋っての、どうかしら? きゃ、新婚さんみたい〜」
 きゃぴきゃぴした笑顔を振りまいて、乙姫は凄く楽しそうだ。家族が増えることがそんなに嬉しいのだろうか、少なくとも織姫はご勘弁願いたい気分だ。
 日常が非日常と取って代わり、そしてそれが絶対に取り戻せないたぐいの喪失であることを、織姫は薄々感づいていた。だが、それを認めたら負けなのだと、本能が語りかけてくる。
 ともかくも織姫の悪あがきの日々はたった今始まったばかりなのだ。がんばれ織姫、負けるな織姫、そしてきっといつの日か、不感症を治すのだ!(あっ、忘れてた)

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